
さて、今回は、八王子市弐分方町の「報恩寺」の跡地とされる場所を訪ねてみたときの記録です。
弐分方町新井の山の中腹には由井宗弘氏の居館があったといわれており、その館址を含むところには、真言宗宝生寺末である「由井山報恩寺」が創建されたといわれています。『八王子事典』によると、報恩寺の創建は天正二年(1574)で、中期開山は良弁上人、明治元年(1880)に宝生寺に合併されて廃寺となり、現在は、跡地に観音堂が建てられています。
実は気になったのが小山祐三著『元八王子の歴史散歩資料』に書かれている、この地域に関する記述で、同書には「報恩寺跡の背後の丘上に、由井氏の館址といわれる平坦地があり、胴塚とも珍宝塚とか呼ばれている塚があるが、その由来は知られていない。」と、この丘陵上に存在する塚について記されています。この塚が一体何者であるかこの目で確かめたくて、この報恩寺の跡地を訪れてみました。
画像の一本道をまっすぐに進んで突き当たったあたりが、報恩寺の跡地とされる場所です。胴塚(珍宝塚?)は残されているのでしょうか。

画像が、報恩寺跡地に建てられたという観音堂です。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には当時の報恩寺に関する記述があり、同書によると、本堂は六間半に七間、観音堂は二間四方、除地は二反四畝であったと記されています。現在の観音堂は、昭和29年(1954)に再建されたもので、堂内にあった本尊と諸仏像は廃寺の際にすべて行方不明となっており、現存する、宝生寺より貰い受けた不動明王坐像のほか、聖観音立像・如意輪観音坐像などが観音堂内に残されているそうです。

この、現在の観音堂の場所がわずかに塚状に盛り上がっているようにも見えることから、ひょっとしたらこの場所が胴塚の跡地であろうか?とも想像しましたが、真相はよくわかりません。。。

観音堂の北側の比較的平坦な場所です。このあたりにも塚は見当たらないようです。
この丘を登っていくと南側には神明神社が、更に登った南西側には不断院というお寺があります。

丘を登ってみたところ、丘陵頂部周辺のようすです。
やはり塚は見当たらないようです。。。

観音堂の北西奥は墓地となっています。
『元八王子の歴史散歩資料』によると、報恩寺が廃寺となった後も墓地は残り、宝生寺が菩提寺となっているようです。やはりこの場所にも塚らしき痕跡は見当たらないようです。
結局、塚らしき痕跡は発見できず。この日はこれで諦めて帰ってきてしまいました。
「胴塚」という名称からして、かつての八王子城と関係するような、おそらくは古墳ではなく中世以降の塚なのではないかと想定できますが、学術的な調査が行われていない(と考えられる)ことから、塚の性格まではわかりません。ちなみにこの観音堂の北方数百メートルほどの丘陵頂部には、「北浅間」、「南浅間」と呼ばれる、古墳ではないかともいわれている塚が2基、残存しています。北浅川を挟んだ対岸に所在するこの胴塚も、開発の手の及んでいない山中が所在地ということで、良い形で残されているのではないかと期待しましたが、この日はうまく出会うことはできませんでした。
この塚に関しては、もう少し深追いしても良かったのではないかと心残りがあり、残存の可能性も捨てきれていないのですが、あらためて訪れる機会があれば、隣接する「不断院」なども訪ねてみようと思っています。
<参考文献>
小山祐三『元八王子の歴史散歩資料』
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- 2018/03/18(日) 00:26:37|
- 八王子市の古墳・塚
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