
画像は、稲城市坂浜に所在する「鐙塚」を北西から見たところです。
『東京都遺跡地図』には登録されていない塚ですが、この塚から「鐙塚」の小字が起こったともいわれており、この地域ではかなり古くから知られた存在だったようです。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に、この塚につい手の記述が見られ、「中央ヨリ南ニヨレリ コノ所ノ畑中に鐙塚トテ 高サ總ニ七尺ハカリノ塚アリ イカサマ由アル塚ナルへケレトモ伝ヘヲ失ヘリ コノ塚ヨリ鐙塚ノ名モ起コリシナルヘケレ」と書かれています。
今でも地元ではいくつかの伝説が残されており、武蔵鐙を作った高麗人の墓であるとか、鎌倉攻めに上野武士の新田義貞が戦死者を埋めた塚であるという俗説があるようです。私が地元の人にお聞きしたところでは、この場所は馬捨て場になっていたところだと伝わっているようですが、特にこのあたりの真相はわかりませんでした。

東から見た鐙塚です。塚の南側は道路により削られているようですが、残存する部分からすると、元は方形の塚なのではないかと思われます。どんな性格の塚なのでしょうか。
鐙塚の周辺地域は「鐙野原(あぶのっぱら)」と呼ばれているようですが、アブは低湿地、ノは野原、ハラは原野で、アブノとは低湿地の原野の意であるといわれています。『新編武蔵風土記稿』にも「鐙野」という地名があり、周辺にアブノの屋号を持つ旧家があることから、稲城市教委委員会発行『稲城市の地名と旧道』では「アブノの地名に鐙野の当て字をした為に鐙塚の俗説が生まれたものであろう」としているようです。
<参考文献>
わいわい探訪隊「すばる」『ひらお散策 ―足もとの小さな物まで―』
稲城市教育委員『稲城市の地名と旧道』
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- 2018/04/11(水) 21:42:00|
- 稲城市の古墳・塚
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