
画像は、東村山市久米川町5丁目にある「熊野神社」を南から見たところです。
久米川村の鎮守であるこの熊野神社の御祭神は伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大神で、創建年代は定かではありませんが、久米川の合戦の際に新田義貞が後詰を置いた所であるとされています。この神社の境内からは、応永32年(1425)銘の青銅製鰐口と水鳥形香炉が発見されており、鎌倉時代から室町時代には社殿が存在していたと考えられています。この神社の敷地内に、東村山市の史跡として指定されている「久米川富士」が所在します。

画像が、熊野神社境内に所在する「久米川富士」です。この富士塚は熊野神社境内の北東隅に築造されており、周囲のどこから見ても同じ形に見える円墳状に造られています。ボク石や丸石などは使われていない簡素な塚で、規模は東西24m、南北24m、高さ6.1mとかなり大型の富士塚で、周囲に建てられている石碑の碑文から、明治21年頃に築造されたと推定されています。

敷地内に東村山市教育委員会により設置されている説明板には次のように書かれています。
東村山市指定史跡
久米川の富士塚
所在地 東村山市久米川五丁目六番地四
指 定 平成八年」(一九九六)七月三日指定第二七号
富士山、その美しい山は古代から信仰の対象とされてき
ました。特に江戸時代には富士講が大流行し、江戸を中心
として数多くの富士塚が築かれました。富士塚とは、富士
山を模した小さな山で、富士山の溶岩を配したり、富士五
湖に見立てた池をつくるなど凝ったものでした。
この久米川の富士塚にも、裾野に風穴がつくられたり、
一合目、二合目の標識が置かれていたようです。山頂にあ
るのは富士浅間社の石祠で「日立講明治二十一年四月入間
川先達富士常行」の銘が刻まれています。また、講の人々
が毎年山開きの日に「六根清浄」を唱えながら塚に登り、
遥かに富士を拝みました。
戦後、各地の富士塚が破壊される中で、この久米川の富
士塚は、現在にその姿を残すことができました。富士信仰
を物語る上でも貴重な遺産と言えるでしょう。
平成九年(一九九七)八月
東村山教育委員会

登山道を中腹まで登ってみたあたりのようす。説明板によると、「裾野の風穴」や、「一合目、二合目の標識」が置かれていたことが書かれているのですが、これらは残念ながら失われてしまっているようです。富士塚自体の保存が行われても、やはり講なくなってしまうと、管理するのが難しいのかもしれませんね。。。

富士塚の頂部から見下ろしてみたところ。
台地の縁辺部に段差を利用して造られているので、かなり高さがあるように感じられます。

山頂のようすです。説明板に書かれている「山頂にあ
るのは富士浅間社の石祠」も見当たらないようです。

段丘上で南からみた久米川富士です。段丘の下から見上げるとかなり大きな富士塚に見えるのですが、こうして見ると小さな小山ですね。
訪れたのは5月頃だったと思うのですが、すでに草ぼうぼうで、全体の形状が見えにくかったのが残念です。
古墳とは無関係の塚ですが、都内各地の富士塚が破壊されてしまった中で保存された貴重な富士塚ということで、見学に訪れてみました。。。
<参考文献>
(財) 日本常民文化研究所『富士講と富士塚 -東京・神奈川-』
東村山ふるさと歴史館『ひがしむらやまぶんかざいめぐるっく』
現地説明版
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- 2018/04/14(土) 00:51:24|
- 東村山市•東大和市の塚
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