
さて、前回に引き続き、今回紹介するのは東京都東村山市本町1丁目に所在する塚で、「大塚(境塚)」と「小塚(境塚)」です。
大塚は、西武線東村山駅の南方数百メートルほどの地点に位置する塚で、昭和44年にはその遺跡範囲のすべてが東村山市の史跡として指定されています。『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号47-1番に「近世の塚」として登録されています。大塚の場所は、東村山市により「平和塔公園」として整備されており、昭和36年(1961)には塚の頂部に平和の女神像が建立されています。
画像は、大塚の所在する「平和塔公園」を東から見たところです。

画像が、南から見た大塚のようすです。
塚の周囲は若干の加工が施されており、塚の裾部は石垣が積まれて土留めが行われています。塚には階段が設けられており、平和の女神像のある塚上に登ることができます。この大塚の形状は陽丸方形を呈しており、径は東西19メートル、南北21メートル、高さ4.5メートルを計り、発掘が行われていないことから塚の内部構造は不明とされています。
塚の前には、東村山市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
境 塚 (平和塔公園)
武蔵狭山丘陵の村々は近世中ごろにかけて広い
秣(馬のエサ)場であったが、幕府は武蔵野原の新
田開発をすすめた。
延宝、元禄年間には入会地の開こんをめぐって幕
藩領主層と自立農民との対立も起り、延宝八年(一
六八〇)には「境目絵図」がつくられたり、その後
村々にはこのような境塚が築かれ、そのひとつとい
われる。
もと「大塚」「小塚(今はなし)」と呼ばれた。頂上
にはご覧のように平和の女神像が建立(昭和三六年)
されている。
浅間塚
あちら側にある円墳状の塚で、頂上にはかつて浅
間神社の石祠が祀ってあって、富士信仰による浅間
塚と呼ばれている。
西宿(現、諏訪町の一、二丁目)の講中の方々の
信仰のものであったもので、この祠は、いま諏訪神
社(諏訪町)境内にうつされている。
東村山市教育委員会
境塚・浅間塚とも市史跡として昭和四四年三月指定
大塚の頂部のようすです。平和の女神像が建てられています。
武蔵野狭山丘陵の村々は、近世初頭から中頃にかけて広い秣場だったそうですが、江戸幕府により武蔵野原の新田開発が進められました。延宝・元禄年間に、入会地の開こんをめぐって幕藩領主層と自立農民との間に対立が起こり、延宝8年(1680)には「境目絵図」が作られ、その後村々には境塚が築かれたといわれています。この大塚もそのうちの1基であるといわれているようです。

大塚の南東に数十メートルほどの地点にはもう1基、「小塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。隣接する「大塚」とともに境塚だったといわれる塚で、『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号47-2番に「近世の塚」として登録されています。
この「小塚」は、高さは約3メートル、底面積は十坪ほどの塚で、「こっぺ塚」という愛称がつけられていました。府中街道の東側で、現在の東村山市本町1丁目4番地に所在したようです。画像の地点が跡地であると思われますが、残念ながら塚の痕跡は残念ながら見ることができません。昭和38年頃に開墾により崩されて消滅したようですが、削平の際には、遺物は何も出土しなかったと伝えられています。
古地図などで確認すると、この地域には「四っ塚」という小字が存在しており、またこの地域の地誌、『 狭山の栞』にも「四っ塚」という塚があったことが記されています。おそらくは、この地域にはかつてもう1基、未知なる塚が存在したのではないかと考えられますが、このあたりの真相はすでにわからなくなっているようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=421186&isDetail=true) 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和36年9月5日に国土地理院により撮影された、大塚と小塚の所在地周辺の空中写真のようすです。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。画像の左上が大塚、右下が小塚です。削平されてしまう直前の小塚をはっきりと確認することができます。
<参考文献>
東村山市史編纂委員会『東村山市史』
現地説明板
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- 2018/04/16(月) 00:37:40|
- 東村山市•東大和市の塚
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