
今回紹介するのは、東村山市本町1丁目に所在する「浅間塚」です。
浅間塚は、西武線東村山駅の南方300メートルほどの地点に位置しており、『東京都遺跡地図』には東村山市の遺跡番号46番の「近世の塚」として登録されています。昭和44年には東村山市の史跡として指定されています。
昭和46年(1971)に発行された『東村山市史』によると、この塚は昭和40年(1965)、塚の一部の土採り工事が行われたことから将来の破壊の可能性があるとし、測量調査が行われて実測図が作成されています。これによると、塚は一見円墳状を呈しているものの実測の結果は長方形であり、規模は東西27.5メートル、南北24メートル、高さ5.2メートルを計ります。覆土は黒色を呈する有機質の腐植土のみで、古墳としての遺物はまったく見られなかったようです。
敷地内には東村山市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれています。
東村山市指定史跡
浅 間 塚
所在 東村山市本町一丁目十五番地十一
指定 昭和四十四年三月一日 指定第二号
江戸時代の末、文化文政の頃(十九世紀前半)から富士信仰が盛んになり、各地に
富士講がつくられ、また富士山を模した富士塚も築かれました。
この塚は富士塚ではありませんが、頂上に富士信仰の浅間神社が祀られており、
浅間塚と呼ばれています。浅間神社の小祠は西宿(現在の諏訪町一、二丁目あたり)
の人々が天保十三年(一八四二)に建てたものです。
塚の形は円形でなく、長辺二七m短辺二四mの長方形をしており高さは五m程です。
このような方形の塚は武蔵野地域には数多く残されており、多くは江戸時代の塚
と考えられますが、何のために築かれたものかははっきりしていません。
この塚も後に浅間神社を祀ったもので、富士信仰のために築かれたものではない
ようです。
かつては府中街道から参道が続いており、頂上からは富士山も良く眺められたこ
とと思います。
平成四年三月 東村山市教育委員会
塚の東側には階段が設けられています。早速、登ってみましょう。
説明板にもあるように、浅間神社の祠が祀られる以前から塚は存在していたと考えられているようですが、築造された当初の塚の性格まではわからないようです。この浅間塚の南東側にある「大塚」と「小塚(現在は消滅)」は、境塚ではないかともいわれているようですので、この浅間塚も含めて境塚であった可能性も考えられるかもしれません。

階段を登って行くと円形の場所に突き当たります。この奥に祀られているのが、「浅間塚」の名称の由来となった、浅間神社の祠です。

「村支小社浅間神社」の石祠です。
この石祠は、かつて神社としての取扱いを受けていて、徳川入府以後、明治9年(1876)までは徳蔵寺が管理していたそうです。

西武国分寺線を挟んだ、西側から見た浅間塚です。
塚は、西武国分寺線の線路により削られ、その後道路によりさらに削られており、塚の西側はかなり急勾配になっています。西武国分寺線を東村山駅へを向かって走ると、到着する直前に車窓の右側(東側)にこの浅間塚を見ることができます。
開発が進む以前の、この周辺が農地だった頃にこの地を訪れていれば、浅間塚、大塚、小塚の3基の塚が並んで存在しており、あるいは古墳群のようにも見えたかもしれませんね。。。

南西から見た浅間塚です。削られた現在の形状がわかります。
<参考文献>
東村山市『東村山市史』
東村山郷土研究会『地域に残る地名にまつわる話』
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- 2018/04/18(水) 00:23:39|
- 東村山市•東大和市の塚
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