
東大和市内の古墳の記録として、『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』には奈良橋村に古墳が存在したという記載があるのですが、残念ながらこの古墳は消滅しており、また『狭山之栞』には山口領野口村の「大塚」や、山口村之内野谷の「割塚」といった古墳の記載を見ることが出来るのですが、これらは後世の塚なで、古墳ではなかったといわれています。東大和市を含む狭山丘陵周辺の市域では、確実に古墳であるといえるものは、残念ながら皆無といえそうな状況です。
画像は、東大和市蔵敷2丁目に所在する「蔵敷庚申塚」を北西から見たところです。
昭和49年(1974)には東大和市の史跡として指定されており、古墳とは無関係な塚はあるものの、マウンドの残る数少ない庚申塚です。

東大和市により設置された説明板には次のように書かれています。
東大和市史跡
蔵敷庚申塚
所在 東大和市蔵敷二丁目五〇八番地付近
指定 昭和四十九年九月二十日
この庚申塚は、高さ約二メートルの塚状をなしてい
る。中央右側にある明和元(一七六四)年造立の庚申塔
供養塔をはじめ、右端に湯殿山大権現の祈願塔、中央
左側に西国・坂東・秩父を合わせて百番の霊場巡拝供
養塔が並び、手前に道しるべがある。
庚申待供養塔は笠付方型石碑で、左上手に法輪、中
手にしょけら、下手に弓、右上手に槍、中手に剣、下
手に矢を持つ六 青面金剛像が刻まれている。
東大和教育委員会

塚上のようすです。左が天明2年(1782)の湯殿山大権現祈願塔、続いて文政8年(1825)の馬頭観音、明和元年(1764)の庚申塔、明治28年(1895)の西国・坂東・秩父百番霊場巡拝供養塔です。敷地内には他に、道しるべなども残されていました。
周囲は道路や宅地に削られているものの、こうして塚が残るのは都内では貴重ですね。

『東大和市のよもやまばなし』によると、Y字形の三角辻には悪い神様がたくさん集まっていて、通る人やそこに住む人に悪さをするもので、昔から「辻しようげ」といわれていました。従って三角辻は利用価値が低く、石仏や石塔などが建てられたり捨て場になったりしたそうです。
東大和市内には、道路が交差する場所に石仏や石塔、祠が祀られている光景をたくさん見ました。その度に立ち止まってしまうので、なかなか探索が進まなくなってしまうのですが(あくまでお目当は古墳なのですが)、まだ古道が残されていて、元あった場所に文化財が残されている光景は楽しいものです。。。
<参考文献>
東大和市教育委員会『道と地名と人のくらし』
郷土史みちの会『東大和のよもやまばなし』
現地説明版
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- 2018/04/26(木) 00:17:03|
- 東村山市•東大和市の塚
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