
JR青梅線は、立川駅を過ぎたあたりから多摩川に沿うように走っていて、特に青梅駅を過ぎたあたりからは、多摩川の北側を並走しています。今回紹介する「鎧塚」が所在する「軍畑(いくさばた)」駅も、駅舎の北側は山林となっており、南側は多摩川に向かって段丘を降りる急坂となっています。この軍畑駅から南へ段丘を下りた都道193号下畑軍畑線の道路沿い、青梅市沢井1丁目に現存する塚が「鎧塚(よろいづか)」です。
余談になりますが、東京都内に無人駅があるんだということは、この鎧塚を訪れた時に初めて知りました。私の地元のさらに田舎では、無人駅など特に珍しくもなんともなかったんですが、東京にもあるんだ〜?と、ちょっと懐かしいような気持ちになりました。私の少年時代と違うなあと感じるのは、この軍畑駅は駅舎がちょっと近代的で格好良いんですよね。しかも、昔はSuicaなんかなかったから、乗客は、無人の駅舎の改札口に置かれた箱に勝手に切符を入れて降りていく、みたいな状況だったんですが、今は「ピッ」と電子音が鳴ったりしています。ほんの何十年かで世の中はどんどん変わってしまいますね。笑。

「鎧塚」は、軍畑駅から直線距離にして100メートルほどに位置しており、駅前のスペースから南東側を見下ろすと、円形の大きな鎧塚の姿を見ることができます。画像は、北西から見た鎧塚です。
『東京都遺跡地図』には、この鎧塚は青梅市の遺跡番号32番の”中世の塚”として登録されています。規模は、直径約30m、高さ約9mの円墳状の塚で、昭和35年(1960)には青梅市の史跡として指定されています。
江戸時代の地誌類には、鎧塚に関する多くの記述が残されており、『新編武蔵風土記稿』には「街道の傍にて小名軍場にあり、塚高き一丈餘、周廻十五間許、塚上六尺四方程の所に一尺餘の小祠を安す、鎧明神と号す二俣屋の城永禄六年落城のとき討死の者の丘器を埋めし塚なりと云、鉄器の破れ、又は刀剣の折れたつものを土人穿出せしことありと云。」とあり、また『武蔵名勝図会』には「小名軍端にて、街道の傍にあり。塚の高さ一丈余、廻り凡そ十五間程、塚の上は六尺四方程にて、ここに一尺ばかりの小祠あり。鎧明神と号す。土人はこの塚を穿ちて矢の根または鎧の錣、或は槍の穂その外種々の兵具を堀りだせしことありと云。合戦の後に討ち死せしものの兵具を埋めたる塚なり。奥沢橋より 二町程を隔つ。」と書かれています。
いわゆる「辛垣の合戦」と呼ばれる戦いで命を落とした、兵士や刀・鎧などの兵具を埋葬した塚ということのようですが、大きな塚を目の前で見ると、相当に多くの兵が戦死した、激しい戦いだったのであろうと想像してしまいます。ちなみにこの周辺の地名や、JR青梅線の駅名ともなっている「軍畑(いくさばた)」も、この辛垣の合戦に由来しているといわれています。

画像は、段丘を下りて東から見上げた「鎧塚」です。墳丘の裾部が一部削られているものの、かなり良好な状態で残されているのがわかります。段丘の下に降りて見上げてみると、塚の大きさを感じることが出来ます。
青梅市教育委員会により設置された説明板には次のように書かれていました。
市指定史跡 鎧塚
鎌倉時代末期から、この地方一帯の領主であった三
田氏は、永祿年間(一五六〇年代)北條氏照の軍勢に
攻められ、辛垣城において最期を遂げた。鎧塚は、こ
の戦いの際に戦死した武者の兵器を埋め、供養した塚
と伝えられている。
『新編武蔵風土記稿』には、「街道の傍にて小名
軍場にあり、塚高さ一丈(三・〇三m)餘、周廻十
五間(二七・二七m)許、塚上六尺(一・八二m)
四方程の所に一尺(三〇・三m)餘の小祠を安す、鎧
明神と號す、二俣尾の城、永祿六年(一五六三)落
城のとき、討死の者の兵器を埋し塚なりと云、鐵器の
破れ又は刀剱の折れたるものを土人穿出せしことあ
りと云」とある。
昭和三十五年十一月三日 指定
青梅市教育委員会
画像は鎧塚の頂部のようすです。祠が祀られていますが、これはかつて鎧塚大明神と呼ばれた神社で、享保16年(1731)に再建されたという記録が残されているそうです。塚に埋葬された戦死者の霊を祀ったものであるといわれています。

塚の前には地蔵尊がが祀られています。宝暦10年(1760)3月の伊奈石製の地蔵尊です。
実は、今回のこの鎧塚の画像は3年ほど前のものなのですが、最新のGoogleマップのストリートビューで確認すると、塚の前の道路の工事が行われていて、パワーシャベルが塚に向かっているようなようすが見られます。ほんの一部であっても、塚自体が削られてしまわなければいいなあと、ちょっと心配になります。
画像は、鎧塚から、南西の「軍畑大橋」を見たところです。この日はこの後、軍畑大橋を渡ってお隣の沢井駅までぶらぶらと30分ほど歩きました。沢井駅近くの、中世の墳墓であるとされる「№175遺跡」を見学してから、午後はなんと仕事に向かうわけですが、思えばこのころはかなりチャレンジャーでしたね。笑。

この辺りまで来ると、多摩川の水はまだ綺麗に透き通っていて、本当にここが東京都なのかと目を疑いたくなるような、美しい景観が広がっています。(仕事に行くの、イヤになっちゃうんですよね。笑)
次回の「№175遺跡」に続く。。。
<参考文献>
青梅市教育委員会『青梅を歩く本』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
現地説明版
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- 2018/05/30(水) 08:13:34|
- 青梅市の古墳・塚
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| コメント:4
お久しぶりです。
わたしは田舎の景色をほとんど知らずにここまできたもので。。
知らない古墳も景色も教えてくれる古墳なう、陰ながら更新楽しみにしております。
- 2018/05/31(木) 14:47:24 |
- URL |
- 紅一点 #-
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紅一点さま、お久しぶりです。
最近は帰省する機会が多く、地元の古墳ばかり散策しています。いずれ公開しますね。
- 2018/05/31(木) 21:53:52 |
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- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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こんばんは、あんけんです。
道路工事のストリートビューですが、撮影されたのは東日本大震災以前のようです(工事してなくて塚の前を通過した画像は昨年ですが)から一安心ですね。祠への登り口も奇麗になってるようですし。
- 2018/06/01(金) 18:47:31 |
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- あんけん #pysVlb7U
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あんけんさま。
確かに、よくよく確認すると、工事している画像は2011年だったようで、私が訪れた以前だったようです。見落としていました。。。
ご指摘ありがとうございます。
- 2018/06/02(土) 00:00:24 |
- URL |
- ご〜ご〜ひでりん #OsZoF7Es
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