
画像は、目黒区目黒本町6丁目に所在する「法界塚」を南西から見たところです。『東京都遺跡地図』には未登録となっているものの、古くから古墳ではないかとも考えられている塚で、昭和36年(1961)に発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつ」とされる12基のうちの1基として取り上げられています。
昭和10年(1935)に発行された『目黑區大觀』にはこの法界塚についての詳しい記述があり
向原町二六〇番地にある。此塚に就て角田長廣氏編『碑文谷村々誌』には左の如く載せている。
所在 字向原?字法界塚 第二百六十四番地 坪數 四十二坪 形状 高さ七尺位にして三角也 雜項 往古より除地の古塚にして何人の塚なるか不詳、乾元元年・明應四年六月二十六日付の碑存 但し天正十三年十一月十七日付の古文書に法界塚を中とすとあり
とある。後述する鬼子母神堂は相隣りして建つて居るが、これは後に此處へ移されたもので、此の塚とは関係がない。往古の古墳とも考へられるが、或は法華寺関係の經塚(碑文谷誌の著者は後者の説)であるとも見られ、確然とした斷案を下すことは至難である。尚ほ『天正十三年の古文書には中とす』とあるのは、新編武蔵風土記稿の編者が法問塚と此の塚を混同して書いたものを、一寸引例したのであらうが、これは勿論誤りであると思考される。従つて此の塚がほつけ塚と云はれ或は法解塚と書かれたものであらう。 と書かれています。
どうやら、古くからこの塚が古墳ではないかとは考えられていたようですが、現在まで学術的な調査が行われた記録はなく、塚の性格は不明のままであるようです。

画像は、法界塚が所在する「碑文谷鬼子母神堂」の境内から見た塚のようすです。かなり多くの碑石が残されています。『碑文谷村々誌』に書かれているように、乾元元年の碑が存在したということになると、乾元元年とは西暦で1302年になりますから、かなり古くから存在する塚であることは間違いないようです。平成3年に現地に設置された説明板には、円融寺文書の吉良氏印判状に
天正十三年の古書にも法界塚と書たれば別に故ありと見えたり と記されていることから法華寺関係の経塚か、あるいは5~6世紀の古墳ではないか、と推測しています。
目黒区郷土研究会より昭和44年に発行されている『郷土目黒 第30輯』に掲載されている「法界塚を見て碑文谷文化の基底を探る」の中で、佐々木逸巳氏はこの塚の性格について
落武者が戦死して、鎧甲のままこの一角に葬られた というこの塚にまつわる言い伝えを紹介したうえで、大永4年(1524)1月13日の小田原城の北条氏綱が江戸城主朝興を攻めたときの戦いではないかと推測しています。また、天台宗の僧円仁(慈覚)がお経をうめて供養塔をたてた経塚の初期のものであろうと推測しています。
目黒区内の古代の遺跡の分布状況から考えると、この周辺地域の古墳の存在はちょっと考え難いようにも思うのですが、いつの日か発掘調査が行われて真相が解明される日が来るのでしょうか。。。

鬼子母神堂のようす。
西小山の日蓮宗摩耶寺に属し、祭神は鬼子母神・18番神です。開基はこの地の安藤氏で、元和2年(1616)に十羅刹女・鬼子母神を勧誘して堂宇を創建したとされ、堂内には同年の板碑1基が保存されているそうです。

神輿と法界塚(特に深い意味なし)。
<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
佐々木逸巳「法界塚を見て碑文谷文化の基底を探る」『郷土目黒 第30輯』
現地説明版
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- 2018/06/14(木) 01:58:48|
- 目黒区の古墳・塚
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