
画像は、武蔵野市境南町2丁目の「杵築大社」を東から見たところです。
この神社は、今から三百五十年程前の後光明天皇の慶安年中(1648〜1651)に、徳川三代将軍家光の従兄弟で家康の次男、松平秀康(越前国北ノ庄六十七万石領主、北ノ庄城々主)の三男、松平出羽守直政公(出雲国松江藩十八万六千石、同藩初代藩主、松江城々主)が、当所十二町四方を将軍家より賜り御用屋敷を設け、鷹狩りをして遊ばれていたところと伝えられています。
松平直政公は大変信仰心厚く、当御用屋敷内に徳川幕府の繁栄と天下泰平を祈願され、出雲の杵築大社(現在の出雲大社のことで、明治以降現社名に改名された)と稲荷社の両者を御創建されたのが、この神社の起こりであるとされています。
祭神は大国主大神、事代主大神で、境内社は稲荷神社、八坂神社、金刀比羅宮、冨士浅間神社、弁天宮、松平稲荷社で、境内には「境富士」と呼ばれる富士塚があり、この富士塚は武蔵野市の史跡として指定されています。

画像が、「境富士(杵築大社の富士山)」を北東から見たところです。
富士塚には武蔵野市教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。
市 史 跡
杵築大社の富士山
昭和四十七年三月十六日指定
この富士山は、明治十四年五月境本村をは
じめ近隣二十二町村の丸嘉講の協力により作
られ、富士講の講中が富士登山や七富士参り
をするさい、先達や講員がこの御山に道中の
安全を祈願しました。
清瀬の富士山神社に次いで三多摩では最大
のもので、境本村を中心とした富士信仰の規
模の大きさをあらわしています。
丸嘉講は富士信仰の一つで、今から約二百
年前赤坂伝馬町の近江屋嘉右エ門がおこし、
本市では旧西窪以西の二百人前後の講員を擁
し、○を講じるしとする講社です。
(○内には嘉)
昭和四十七年三月三十一日建設
武蔵野市教育委員会
塚の手前には、富士五湖を象った池が掘られており、これは塚築造用の土採取もひとつの目的となっていたそうです。池の正面には「富士橋」なる橋が架けられており、橋を渡り、石造の明神鳥居をくぐって登山道に入ります。

さてさて、早速、富士塚に登って見ましょう。

境富士は、武蔵野特有の円墳状に土を盛り上げて築いた土盛り型の富士塚です。登山道の入り口に建てられている築造の際の記念碑には、井口村や上連雀、下連雀村、新川村等の近隣各村の丸嘉講社のほか、上石神井村、落合村、南沢村、前沢村、下保谷村、上保谷村、など十八か村の丸嘉講社が講社中として名を連ねていることから、塚の築造にあたって各村の講社が協力したものと推測されています。

登山道は正面に造られており、電光形の登山道が左右に2本、設けられています。

境富士は、築造時には土だけを使用して造られていますが、昭和48年(1973)に修繕が行われた際には、頂上にトラック3台分の熔岩が積み上げられており、また登山道の両側にも配置されています。

山頂部が見えてきました。すでに若干ハァハァいっています。笑。。。

山頂部の様子です。築造当時に安置されたとされる石祠が、現在は溶岩の上に安置されています。

西から見た境富士です。こちら側からみると、塚の全貌を見ることができます。
塚上には多くの樹木が植えられています。
昭和45年に武蔵野市史編纂委員会より発行された『武蔵野市史』の「古代」の章でもこの富士塚についてふれられているようですが、「境南町鎮座の「杵築神社」内には富士塚があって、これは明らかに近世末期の築造であることがわかっている。」と、古墳である可能性はなさそうです。。。
<参考文献>
武蔵野市史編纂委員会『武蔵野市史』
日本常民文化研究所『富士講と富士塚』
現地説明板
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- 2018/10/21(日) 21:42:37|
- 武蔵野市の古墳・塚
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