
さて、今回は「瀬戸岡古墳群」D群を取り上げようと思います。
瀬戸岡古墳群を構成する古墳は、河原石や山石が墳丘を覆う小円墳で積石塚古墳とされています。この特殊な形態の古墳の被葬者の性格を巡っては、環境自生説と大陸墓制説とで議論のあるところだそうです。またこのこの古墳群が胴張りアーチ状石室の積石塚ということから、高句麗系渡来人との関連が想定されているそうです。D群は標高150m前後の中位段丘面に展開しており、23基で構成される最も古墳が密集している地域です。すでに発掘が行われた古墳が多く所在しており、最も実態が判明している地域です。
画像は「瀬戸岡古墳群30号墳」の跡地を西から見たところです。30号墳は、グループ分けされたD群中最も南端に所在しており、瀬戸岡古墳群全体の中ではほぼ中心部に位置する古墳です。古墳は都道の建設によりすでに消滅しているようですが、画像の歩道から車道にかけて石室が存在したと思われます。
この30号墳については、昭和12年(1937)に瀬戸岡青年会有志により発掘調査が行われた古墳がこの30号墳ではないかといわれており、昭和55年(1980)に実測調査が行われた後、埋め戻されて保存されていたようです。そして、平成10年(1998)から11年(1999)にかけて都道建設に伴う発掘調査が行われています。瀬戸岡古墳群を構成する古墳は主体部のほとんどが地表面下に構築され、石室の形態は横穴式石室の形状を有しながらも埋葬は天井部から行われ、棺の納置後に天井石が設置されるという大きな特徴が挙げられます。そして、墳丘は盛土のかわりに礫が積まれる「積石塚」の終末期的様相を呈しています。しかし、この30号墳の発掘調査の結果、石室は天井石さえも地表面下におさまるほどの地下式構造が確認されたものの、羨道部の延長部分に石室に向かって段々に斜行する墓道が確認され、埋葬はこれまで考えられていた天井部からではなく、羨道部側から行われたであろうことがわかっているそうです。

画像は「瀬戸岡古墳群30号墳」の発掘当時のようすです。歴史環境保全地域の地区を提供している岸野修一氏宅にて見せていただいた写真をカメラに収めたもので、おそらくは昭和55年(1980)に行われた実測調査の際の写真であると思われます。築造された場所に残存する、瀬戸岡30号墳の貴重なスナップです。この古墳は、瀬戸岡に在住する10名ほどの有識者の連署により、「瀬戸岡30号墳の保存に関する請願」が提出され、レプリカが保存されています。納戸か公開されているようなのですが、私は機会に恵まれず、まだお目にかかったことがありません。。。

画像は「瀬戸岡古墳群36号墳」の所在地のようすです。大正時代後半から昭和初年にかけて行われた調査では、当時把握されていた7基の古墳のうちのA~E号墳の5基の古墳の発掘が行われており、C号墳がこの36号墳であったとされています。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされていますが、その後に都道の建設工事が行われており、消滅しているのではないかと思われます。

画像は「瀬戸岡古墳群39号墳」の所在地のようすです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされていますので、画像中央の道路直下の地中に石室が残されているのかもしれません。残念ながら発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群27号墳」の所在地周辺のようすです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「消滅?」と書かれています。この古墳の場所はすでに宅地化されており、発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群38号墳」の所在地のようすです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされていますので、この古墳も画像中央の道路下の地中に石室が存在するのかもしれませんが、発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群28号墳」の跡地のようすです。自転車が置かれているあたりが古墳の跡地であると思われます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「消滅?」とされているようですが、この古墳も発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群40号墳」の跡地のようすです。あきる野市教育委員会による「瀬戸岡古墳群」の説明板が立てられているあたりが40号墳の所在地と思われますが、古墳らしき面影は何も見られないようです。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされており、所在地は「歴史環境保全区域」に指定されている岸野氏宅地内に入っているようですので、地中には石室が残されているのかもしれません。設置された説明板には次のように書かれています。
東京都指定史蹟
瀬 戸 岡 古 墳 群
所在地 あきる野市瀬戸岡七九一番 他
指 定 大正十五年五月
瀬戸岡古墳群は、大正十五年(一九二六)に発見さ
れた、径約三〇〇mの範囲に五十基ほどの小規模な
古墳が分布する古墳群です。
古墳は、「竪穴式石室的横穴式石室」とよばれた
特異な石室構造と、焼骨が入った蔵骨器が発見され
たことから、すでに火葬が始まった奈良時代以降の
古墳とされ、当時の考古学会に波紋を呼びました。
現在では、古墳が造られた年代は七世紀代と考え
られ、後世に石室が再利用されて、蔵骨器(八世紀末
~九世紀初頭)が新たに埋納されたものと考えられ
ています。
瀬戸岡古墳群は、南武蔵地域の中で類例が少ない
横穴式石室を構築する高塚古墳で、後期古墳群とし
て最大級の群集をし、学史的にも貴重な古墳群です。
平成十八年三月十六日、旧跡から史跡へ変更しま
した。
平成二十年三月 設置
東京都教育委員会
「瀬戸岡古墳群29号墳」は、画像右側の民家の敷地内が所在地となるようです。あたりが古墳の跡地であると思われます。『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「消滅?」と書かれているようですが、この古墳も発掘調査が行われていないため詳細は不明です。

画像は「瀬戸岡古墳群37号墳」の所在地のようすです。画像中央の道路の真下が所在地で、『多摩地区所在古墳確認調査報告書』では「残存」とされているようですので、この古墳も地中に石室が残されているのでしょうか。残念ながら発掘調査が行われていないため詳細は不明です。
次回、瀬戸岡古墳群その5(D群)に続く…
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
瀬戸岡古墳群市道地区調査会『瀬戸岡古墳群』
東京都埋蔵文化財センター『天神前遺跡 瀬戸岡古墳群 上賀多遺跡 新道通遺跡 南小宮遺跡』
池上 悟 広瀬 和雄『武蔵と相模の古墳 (季刊考古学別冊 15)』
現地説明版
人気ブログランキングへ
- 2017/02/19(日) 23:38:15|
- あきる野市/瀬戸岡古墳群
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0