
「五所塚」は、川崎市宮前区五所塚1丁目に所在する塚です。
地元では古くから五所塚と呼ばれており、周辺地名の由来ともなっている塚で、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の長尾村の項には、「墳墓五ヶ塚 小名神木谷にあり、五つながら並べり、長尾景虎及従者の墳墓なりと云傳ふれども、景虎は天正六年越中春日山の城にて歿せしこと世にしる所、別にゆへある人の塚なるべし、相傳相ふ昔此邊より石の匣を掘出せしことあり、大さは大抵一尺四五寸四方にて、蓋に高印の二字を彫り、其中に真鍮の一丸あり、大さ銀杏の如し、是を振へば、盧中に物ありて音をなせり、何に用ひしものと云ことは考ふべからざれど、葬具などにやと村老いへり、何れにも古の明器の類なるべし、されどいつしか其ものをも失ひて今はなし」と記されています。同書ではこの塚は、長尾景虎とその従者の墳墓ではないかとしているようですが、現在では村境などに造られた「境」信仰の塚ではないかと考えられています。
画像は、5基の塚のうち、もっとも南の1基です。現在のこの場所は「五所塚第一公園」として整備、公開されており、いつでも見学することができます。五つの塚がそのまま残されているのは、全国的に見ても珍しいそうです。
2基めの塚のようすです。
五所塚のかたわらには、昭和40年(1965)まで巨木稚児の松があり、落馬して命を落とした射手の稚児の供養のために植えられたと伝えられていました。現在では1月7日(またはそれに近い日曜日)に、的を射て1年の無病息災農事無事を祈願するマトーと呼ばれる行事が行われているそうです。射手は7歳未満の男児2人が務め、烏帽子・直垂姿でアシをつぶしてむしろ状に編んだものに和紙を張ったマトに、モモの木で作った弓で篠竹の矢を射る。的の裏には「鬼」の字が書かれ、矢が鬼の文字を貫けば豊作といわれています。

中央の塚のようすです。

南から4基目の塚。
この塚の前には、川崎市教育委員会による説明板が設置されています。
五所塚と権現台遺跡
五所塚は、直径四メートル・高さ二メートル前後の
五つの塚が南北に並んでいることから、地元では古く
から、こう呼ばれてきました。外観は古墳時代の円墳
に似ていますが、実際は、中・近世に村境や尾根筋に
築かれた十三塚などと同様の、民俗信仰に基づく塚で
あると考えられています。
この五所塚から長尾神社境内につづく舌状台地上の
平坦部は、権現台遺跡と呼ばれる縄文時代中・後期の
集落跡です。昭和三十三年(一九五八)に実施された発
掘調査では、竪穴住居跡四軒、炉跡二基、配石遺構一
基が発見されました。なかでも、平面形が五角形とい
う特異な形状をした縄文中期の竪穴住居跡や、男根を
模した二本の石棒が据えられ、狩猟にまつわる祭りを
行ったと思われる縄文後期の配石遺構は重要な発見で
した。
ここ五所塚第一公園には、地上に中・近世の信仰塚
が、地下には狩猟祭祀をした縄文時代のムラの跡が重
複しているのです。
平成四年三月
川崎市教育委員会
もっとも北側にある1基です。
説明板の内容からして、この5基の塚が古墳ではないことは間違いないようですが、塚自体の発掘調査は行われていないようなので、実態はわからないというのが現状でしょうか。
その土地に存在した塚にまつわる字名は、住居表示の変更により失われてしまった地名も少なくないのですが、この地域は「五所塚××丁目」と、五所塚の名称がそのまま残されているのですよね。そういう意味でも、五所塚がこのまま良い状態で保存されると良いなあと、切に願います。

整然と並ぶ、塚のようすです。
この周辺には多くの絶景ポイントが存在するようです。
私は、多摩川沿いの低地から、台地のもっとも高い場所にあるこの五所塚第一公園まで自転車で登りましたので、そりゃもう息が切れてしまって、呼吸が整うまでしばらくかかりました。少し冷静になって周りを見渡す余裕があれば、素晴らしい景観を楽しむ事ができたかもしれないのですが、失敗ですね。笑。
例えば、夜景を楽しむために訪れてみるのも悪くないのかもしれません。
<参考文献>
相原精次・藤城憲児『神奈川の古墳散歩』
神奈川県高等学校教科研究会社会科歴史分科会『神奈川県の歴史散歩〈上〉』
現地説明版
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- 2019/01/08(火) 23:57:49|
- 川崎市の古墳・塚
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