
画像は、町田市野津田町所在の「小野路の一里塚」です。
現在の町田市立野津田公園の西入口に現存する一里塚です。
小野路から図師に通ずるこの大山道は、東海道を小田原から分かれた重要な裏街道だったことでも知られており、この一里塚は、駿河の久能山に埋葬した徳川家康の遺骨を江戸時代の初期元和3年(1617)3月21日に日光東照宮に移したときの、街道の整備とともに造られたものであるといわれています。
画像は、この大山道にて現在の一里塚を北東から見たところで、塚は道の両側に存在するようですが、これは道の片側にのみ残されていたものを、公園整備の一環として両側ともに復元されたものであるそうです。

南東側の塚のようすです。塚の前には木製の説明板が設置されています。
この説明板によると、御尊櫃を乗せた輿が向坂を下ったときに壊れ、一行が難渋して鍛冶屋を呼んで修理したという伝承が残されているそうです。このときの小野路村の労苦に対して、幕府は以後助郷を免除したといわれています。

北西側の塚のようすです。
昭和のはじめ頃まで、塚上には榎の老木があったそうですが、残念ながら現在は見られません。
一里塚の榎については、次のような伝承が残されています。
或る日、徳川二代目将軍秀忠の前に、幕府の老中で倒壊、東山、北陸三道の一里塚築造の監督をしたとされる、大久保石見守長安(1545~1613)が進みでて、「一里塚には何の樹を植えて宜式や」と言上したところ、秀忠は「三道には松を植えたれば、一里塚には余の木(松以外の木)を植えよ」と命じたといわれています。歳も60を超え、耳も遠かったという長安は「余の木」を「榎」を聞き誤り、一里塚上に榎を植えたと伝えられています。
これは、各地の一里塚を訪れるたびによく聞く伝承なのですが、そんなんで多額の税金を投入して問題が起こらなかったのかよと心配になってしまいますが、案外現代でも起こりそうなお話かもしれません。。。

北西の塚に立てられている「おおやまみち小野路」の石碑です。
町田市内の一里塚としては他に、木曽の一里塚が片側の1基のみが残されていますが、多摩市貝取にあった塚は現在は消滅してしまっているようです。
<参考文献>
多摩市『町田の民話と伝承 第一集』
現地説明板
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- 2019/01/30(水) 01:09:13|
- 東京の一里塚
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