
「かぶと塚」は、町田市忠生3丁目に所在したといわれる塚です。
このかぶと塚は、すでに開発により削平されて存在しない塚で、『東京都遺跡地図』にも登録されていないようです。しかし、塚にまつわる多くの伝承が現代まで伝えられており、塚の跡地は「かぶと塚公園」として整備され、公園名に塚の名称が残されています。
画像は、現在のかぶと塚公園の様子です。

平安時代末期、壮絶な持久戦となった源義賢と義平の戦いは両軍和睦となり、箭幹八幡宮前でお互いに和睦の誓いをしたとされています。この際、戦場となった柄沢北の台地に塚を築き、周辺に散乱していた武具や弓矢を集めて塚の下に納めたといわれ、これがかぶと塚であるとの言い伝えが残されているようです。また、形が兜に似ているから兜塚とも言うともいわれており、一説には古代に築造された古墳だったのではないかとする説もあるようです。
この付近には、他に「よろい塚」と呼ばれる塚の伝承が残されており、またわずか200mほど北方は、町田市の遺跡番号214番の「馬駈古墳」の所在地です。そして周辺にはさらに複数の塚の存在も伝えられており、古墳の存在も考えられるとても興味深い地域です。
画像は、かぶと塚公園内の一角にある、正体不明の塚状のマウンドです。町田市により発行された『町田市史』によると「慰霊塔約10メートル西南にある塚は新設されたもので、古くからの「かぶと塚」ではない」と書かれていますので、あるいは破壊してしまったかぶと塚を偲んで造られたものなのかもしれません。
往時のかぶと塚は、広さ約20平方メートル、高さ3メートルほどの饅頭型の塚だったそうなので、現在ある塚よりもかなり大きな塚だったようです。。。

『忠生村史』によると、大正3年(1914)にはこの塚上には「忠魂碑」が建立されたようですが、その後昭和30年(1955)頃まで塚は残されていたものの、発掘調査が行われないまま開発が進み、塚は消滅。残念ながら塚の性格は不明なままです。
かぶと塚公園と道を隔てた北側には、市域旧五ケ町村の碑が集められて慰霊公園として整備されています。塚上に建てられていたという忠魂碑も、この慰霊公園に移されて保存されています。慰霊公園には、昭和46年(1971)に慰霊塔が建立されましたが、その後の老朽化に伴い、塔の高さと外装を変更する改修が行われて現在に至っています。
画像は、現在の慰霊塔です。

画像の中央に見えるのが、かぶと塚に建てられていたという忠魂碑と石碑です。

反対側にも、数多くの石碑がずらりと並んでいます。
以下、次回の「よろい塚」に続く。。。
<参考文献>
忠生村村誌編さん委員会『忠生村誌』
町田市『町田市史』
小山田の歴史を知る会『小山田のむかし』
町田市教育委員会『町田の民話と伝承 第一集』
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- 2019/02/06(水) 02:31:24|
- 町田市の古墳・塚
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