
さて、前回の「二子塚古墳」に続き、今回も川崎市の低地の古墳のシリーズ2ということで、「北見方古墳」の探訪の記録です。
この古墳は、残念ながら開発により消滅している古墳です。現在の高津区北見方周辺にあったとされ、旧北見方村北宮前耕地352番地の西側、諏訪河原村境近くの水田の中に突出して存在したといわれています。昭和12年(1937)に日本通信工場建設のために付近一帯が買収され、この頃に塚は削平されてしまったようです。
『川崎の遺跡』には、「高津区№145遺跡」として画像のあたりに登録されており、現在はかなり大きなマンションとその駐車場、駐輪場となっているようです。
出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=720247&isDetail=true) 昭和12年に削平されてしまったという北見方古墳ですが、空中写真を確認することによりわずかながらの痕跡を見ることができるようです。
画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和11年(1936)8月14日に陸軍により撮影された北見方古墳古墳の所在地周辺の空中写真です。わかりやすいように跡地周辺を切り取っています。
画像の中央に、うっすらと円形の影が見えるがお分かりでしょうか。残存する古墳の形状なのか、周溝が影となって見えているのかよくわかりませんが、この円形の影が古墳であれば、ネットで公開されている『ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム』に登録されている古墳の位置と、ピタリと一致します。
やはり北見方古墳は、この場所に存在したのかもしれません。。。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、この古墳についての記述が見られ、
古塚 村ノ村ノ北ノ方ニアリ田間ニ突出セリ高七尺餘敷ノ徑六間許何塚ト云コトモ傳ヘズ中古里正掘リテ平田ヲ發ントセシニ古陶器幷ニ壺ナト出シカサマテ證トナスヘキ物ナシ古へユヘアル人ノ葬地ナトニテモアルカ今ハ上ニ石ノ地藏ヲ建 と書かれています。
この地誌に記述が見られることからして、江戸時代には地元では知られた存在であったと考えられますが、塚の名称については「古塚」とされており、由来についても特に伝えられていなかったようです。古陶器や壺の出土が伝えられており、「古へユヘアル人ノ葬地」としていることから、この塚が古墳である可能性は高そうです。
塚上に安置されていたという地蔵尊は2基あり、現在はマンションの南東側、白髭神社の道路を挟んだ向かい側に安置されています。

北見方古墳の地蔵尊です。
真新しいお花が生けられていました。

明治39年の陸軍陸地測量部による古地図によると、北見方1丁目の画像の周辺にも何らかの塚が存在したようです。『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』では「地形図には北見方に塚の表現があるが、これは新編武蔵風土記稿にいう陶磁器・壺等を出した北見方古墳とみられる。」と、この場所が北見方古墳であるとしているようです。こちらは開発により宅地化が進み、古墳の痕跡は何も残されていないようです。
跡地近くに地蔵尊が祀られていることからして、最初に取り上げた地点が北見方古墳で、こちらの塚はまた別の古墳(塚?)なのではないかとも考えられますが、真相はわかりません。
少なくとも、多摩川右岸の低地にかなり多くの古墳が存在したことは間違いなく、今後の発掘調査の進展が楽しみな地域ですね。。。
<参考文献>
上田恒三『高津村風土記稿』
川崎市民ミュージアム『加瀬台古墳群の研究Ⅰ』
人気ブログランキングへ
- 2019/03/06(水) 22:22:35|
- 川崎市の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0