
今回は、川崎市高津区の諏訪地区の古墳の探訪の記録です。
この高津区諏訪3丁目周辺には、今も「諏訪浅間塚古墳」、「諏訪天神塚古墳」という2基の古墳が現存します。これらの古墳はかなり古くから知られた存在であったと考えられ、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にも記述が見られます。同書の「諏訪河原村」の項には「塚三」と3基の古墳について記されており、浅間塚と天神塚以外にもう1基の未知なる古墳が存在したようです。
最初の画像は、「諏訪浅間塚古墳」を南西から見たところです。
『新編武蔵風土記稿』には
一ハ字塚田通ニアリ、百姓傳八ト云モノゝ住居ノ後ニテ高サ三四丈ハカリノ塚ナリ上ニ富士淺間ヲ勧誘シ石ノ祠ヲ立裏ニ諏訪左近七世ノ孫小黒傳八ト鐫レリ寳暦ノ頃造立セシモノナリ故ニ土人淺間塚ト云 と書かれています。
この古墳は、多摩川の広い沖積地に築造された古墳で、平成元年(1989)に発行された『川崎市文化財調査集録』によると、当時の規模は径19.5m、高さ3.8mで、この規模は現在も大きな変化はなさそうです。墳丘の東側が削られていることから楕円形に近い形状となっており、墳頂部には富士浅間社が祀られているそうです。訪れた当日に土地の所有者に声をかけてみましたが、残念ながら公開はしていないということで、この祠を見ることはできませんでした。

北から見た諏訪浅間塚古墳です。
土地の所有者である小黒家によると、浅間塚、天神塚と消滅したもう一基を含む3基の塚は、二ヶ領用水工事の際に掘り上げによる残土を、洪水時の避難用の塚として盛り上げたものであると伝えられているそうです。
この一帯は多摩川右岸の広い沖積地で、しばしば多摩川の洪水に見舞われていたようですが、明治40年代の大洪水の際は、水は床下浸水くらいで、非難塚として使われることはなかったそうです。ただし、古くは実際に洪水時に塚の上に避難したこともあったと伝えられているようです。
この浅間塚は相応の高さが残されているようですし、浸水をしのぐことができたのかもしれません。古墳が築造されて以降、長い年月の間に度重なる洪水に見舞われたことと思われますが、こうして古墳が崩れずに残されていることからして、当時の土木技術が優れていたということかもしれませんね。。。
以下、次回の「避難塚その2」に続く。。。
<参考文献>
川崎郷土研究会「川崎諏訪の避難塚」『川崎研究 第17号』
川崎市教育委員会『川崎市文化財調査集録 第24集』
現地説明版
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- 2019/03/13(水) 23:58:18|
- 川崎市の古墳・塚
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