
画像は、あきる野市館谷みとうがいどにある「八幡神社」を東からみたところです。祭神は応神天皇であるこの八幡神社は、寛文2年(1663)の検地帳に「御除地畑五畝六歩八幡免正光寺持」とあるのみで、起源や由来は不詳とされています。この神社の周辺にはかつて古墳が存在したといわれており、『東京都遺跡地図』には「舘谷古墳群」の名称であきる野市の遺跡番号22番の古墳として登録されています。

『多摩地区所在古墳確認調査報告書』によると、この周辺には3基の古墳が存在したとされており、このうちの1基について昭和37年(1962)に行われた発掘調査の詳しい経緯が、昭和51年(1976)に発行された『五日市町史』に記されています。
五日市の古墳に関してはあまり世間に知られていないが、この古墳は八幡神社脇にあったもので、昭和三十七年頃、当時考古学に関心の深かった来住野重康(故人)が、国立音楽大学教授甲野勇氏(故人)に連絡、学習院大学生の手によって発掘調査が行われた。現場は八幡神社前庭境内に隣接、一段下がった雑木林の中で、おびただしい積石を排除すると、南北に構成された積石石槨の一部が「コ」の字型に残っていることがはっきりした。途中大きな石が順序不動に出てきたが、これらは秋川から運ばれてきたもので、付近に存在するものではなく、羨道部分や蓋石に使われたものであろうとされ、ほとんど破壊された遺跡で、出土品は既になかった。指導に立合われた甲野教授や玉川大学の大谷勀氏の 言 では、「中世、八幡神社の創建当時破壊され、これらの大石が、神社の石段などに利用されたのではないか」とのことであった。ただし、この古墳も瀬戸岡古墳に類する、積石塚古墳出会ったことは残された部分で明瞭であった。(『五日市町史』54ページ)
『五日市町史』にある、古墳の所在地とされる「八幡神社前庭境内に隣接、一段下がった雑木林」を当時の空中写真等で確認すると、おそらくは神社境内の南側あたりではないかと考えられます。
画像は、八幡神社の境内南側の一段下がった一帯のようです。すでに周辺地域は開発が進み、住宅地となっています。画像の左側はすぐに崖になっていて、多摩川の支流である秋川が西に向かって流れています。

画像は、先ほどの八幡神社南側の住宅地周辺を段丘下から見上げてみたところです。おそらくはこの台地縁辺部周辺に古墳は存在したのではないかと思われます。

周辺地域で唯一宅地化されていない空地が存在します。八幡神社南側の台地縁辺部にあたり、古墳の所在地として一番怪しい場所なのですが、地中に痕跡が残されている可能性は高そうです。

空地には微妙なマウンドが存在するようです。地膨れ程度の僅かな盛土ですが、発掘調査後に埋め戻された埋葬施設が残されている可能性はないのでしょうか。。。

空地のすぐ横のカフェに、とても思わせぶりな置き物が2体、置かれています。なにか古墳と関係があるのでしょうか。。。

画像が「秋川」です。画像左側の段丘上が舘谷古墳群の所在地となります。
<参考文献>
秋川市史編纂委員会『五日市町史』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
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- 2017/03/12(日) 10:02:49|
- あきる野市/その他の古墳・塚
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