
今回は、川崎市宮前区野川に所在する「十三坊塚」の探訪の記録です。
この十三坊塚は、県営野川南台団地の南側に1基のみが残存するという状況であるようですが、かつては13基の塚が並んでいたとも伝えられています。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「十三本堂」の名称で取り上げられており、「中程ナリ又十三菩提トモ十三本塚トモ呼リ古ハ古塚十三アリシト云今ハ其狀ノミ殘レリ中古此所ヨリ甲冑ノ朽シモノヲ掘出セシト云」と記されています。
朽ちた甲冑が出土したという記述は、やはり古墳を連想させる興味深い伝承ですが、発掘調査は行われていないようなので、塚の性格についてはよくわかりません。新田義興の家臣の墓という説、武器の隠し場所説、災厄除け説等、諸説あるようですが、現状は十三仏信仰に因むものと考えられているようです。
画像は、十三坊塚を北西からみたところです。
周辺地域にはまだわずかに農地が残されているようですが、塚の周囲は宅地化が進んでおり、塚の南側と西側は道路により若干削平されているようです。

画像は、南東から見た十三坊塚です。
昭和59年(1984)に発行された『十三塚 ―現況調査編―』にもこの塚は取り上げられており、「1基現存」、「畑と道路の境界部分にあり」とあり、また規模について「南北7.4m、東西3.25m、高さ1.2m(本来は径7m前後の円形か)」と書かれています。
さらには、現在の川崎市のHPでも、「十三坊塚」の名称で、古墳ではなく塚として取り上げており、「権六谷戸と有馬川に挟まれた南野川の台地にある塚。「新編武蔵風土記稿」には昔ここに13の塚があったとされるが、現在では県営野川南台団地の南西部に1箇所が残るだけである。」と解説されています。
ただし、「川崎市市民ミュージアム考古学叢書2」に掲載されている橘樹郡内の古墳一覧表には、この塚を「5世紀築造?の十三菩提古墳」として掲載しており、また現在の『Googleマップ』には「野川南台和田古墳」という名称でプロットされています。
この、十三菩提古墳や野川南台和田古墳の名称が正式な名称なのかもよくわからなかったのですが、果たしてこの塚が古墳なのか、それとも十三塚の残存する1基なのか、とても興味深い存在です。。。

塚の東側の裾部には、お地蔵様が祀られていました。
訪れた当日も綺麗なお花が生けられていて、開発の進んだ現在でも地元の人に大切にされている様子がわかります。なんとか、良い形で塚が保存されることを祈ります。
<参考文献>
千秋社『新編武蔵風土記稿 横浜 川崎編1』
川崎市市民ミュージアム『川崎市市民ミュージアム考古学叢書2』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』
川崎市宮前区役所『宮前区歴史ガイドまち歩き』
人気ブログランキングへ
- 2019/06/12(水) 23:22:04|
- 川崎市の古墳・塚
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0