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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「十三坊塚(十三菩提古墳・野川南台和田古墳)」

「十三坊塚(野川南台和田古墳No.142野川南耕地)」

 今回は、川崎市宮前区野川に所在する「十三坊塚」の探訪の記録です。

 この十三坊塚は、県営野川南台団地の南側に1基のみが残存するという状況であるようですが、かつては13基の塚が並んでいたとも伝えられています。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「十三本堂」の名称で取り上げられており、「中程ナリ又十三菩提トモ十三本塚トモ呼リ古ハ古塚十三アリシト云今ハ其狀ノミ殘レリ中古此所ヨリ甲冑ノ朽シモノヲ掘出セシト云」と記されています。
 朽ちた甲冑が出土したという記述は、やはり古墳を連想させる興味深い伝承ですが、発掘調査は行われていないようなので、塚の性格についてはよくわかりません。新田義興の家臣の墓という説、武器の隠し場所説、災厄除け説等、諸説あるようですが、現状は十三仏信仰に因むものと考えられているようです。

 画像は、十三坊塚を北西からみたところです。
 周辺地域にはまだわずかに農地が残されているようですが、塚の周囲は宅地化が進んでおり、塚の南側と西側は道路により若干削平されているようです。


「十三坊塚(野川南台和田古墳No.142野川南耕地)」

 画像は、南東から見た十三坊塚です。
 昭和59年(1984)に発行された『十三塚 ―現況調査編―』にもこの塚は取り上げられており、「1基現存」、「畑と道路の境界部分にあり」とあり、また規模について「南北7.4m、東西3.25m、高さ1.2m(本来は径7m前後の円形か)」と書かれています。
 さらには、現在の川崎市のHPでも、「十三坊塚」の名称で、古墳ではなく塚として取り上げており、「権六谷戸と有馬川に挟まれた南野川の台地にある塚。「新編武蔵風土記稿」には昔ここに13の塚があったとされるが、現在では県営野川南台団地の南西部に1箇所が残るだけである。」と解説されています。
 ただし、「川崎市市民ミュージアム考古学叢書2」に掲載されている橘樹郡内の古墳一覧表には、この塚を「5世紀築造?の十三菩提古墳」として掲載しており、また現在の『Googleマップ』には「野川南台和田古墳」という名称でプロットされています。
 この、十三菩提古墳や野川南台和田古墳の名称が正式な名称なのかもよくわからなかったのですが、果たしてこの塚が古墳なのか、それとも十三塚の残存する1基なのか、とても興味深い存在です。。。



「十三坊塚(野川南台和田古墳No.142野川南耕地)」

 塚の東側の裾部には、お地蔵様が祀られていました。
 訪れた当日も綺麗なお花が生けられていて、開発の進んだ現在でも地元の人に大切にされている様子がわかります。なんとか、良い形で塚が保存されることを祈ります。

<参考文献>
千秋社『新編武蔵風土記稿 横浜 川崎編1』
川崎市市民ミュージアム『川崎市市民ミュージアム考古学叢書2』
神奈川大学日本常民文化研究所『十三塚 ―現況調査編―』
川崎市宮前区役所『宮前区歴史ガイドまち歩き』


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  1. 2019/06/12(水) 23:22:04|
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「有馬古墳」

「有馬古墳」

 「有馬古墳」は、川崎市宮前区東有馬5丁目に所在する古墳です。
 宮前区の№16遺跡として登録されている古墳で、県営有馬団地の南西側、たぬき公園内に保存されています。
 画像は、この有馬古墳を南東からみたところです。
 
 『新編武蔵風土記稿』にはこの古墳について「大塚村の東にあり、よほど高き塚なり、土人も何人の塚なることを伝へず、又古の一里塚なりともいへり、それをいかにと云び此所より馬絹村の方へ古道ありて、此塚其路傍にあたりと云、されど其慥なることを知らず」とあり、古くから知られた存在ではあったものの、塚の由来等は伝えられていなかったようです。


「有馬古墳」

 埋葬施設や周溝等の詳細は不明ですが、平成元年度の実測調査により、南北径26.5m、東西径25.5m、高さ4.2mを測り、川崎市内に残存する古墳の中ではかなり良好な状態で残されているようです。


「有馬古墳」

 かつてのこの古墳の周辺は畑地として利用されていたようですが、古墳に触れるとたびたび祟りがあったことから、近寄らなかったという伝承が伝えられているようです。


「有馬古墳」

 墳頂部の様子です。稲荷の祠が祀られています。
 祟りの伝承があったからか、墳丘を覆う大木と背丈ほどもある藪で荒れ果てていたようですが、現在はキレイに整備されて、地元の人により祀られているようです。
 
<参考文献>
伊藤秀吉「川崎市の古墳(二)」『川崎市文化財調査集録 第4集』
川崎市教育委員会社会教育部文化課『川崎市文化財調査集録 第27集』


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  1. 2019/05/29(水) 23:48:13|
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「野川古墳群(野川1号墳〜3号墳・北根古墳)」

「野川1号墳」

 さて、今回は川崎市宮前区に所在する「野川古墳群」の探訪の記録です。

 この古墳群は、影向寺台西側の台地上、南に伸びる舌状台地上に存在したという古墳群で、江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には「古は古塚十三ありしと云、今は其状のみ残れり、中古此所より甲冑の朽しものを掘出せしと云、」と記載されています。その全てが古墳であったかどうかは、ほとんどの塚が消滅してしまった現在では知る由もありませんが、少なくとも江戸時代には13箇所の塚の痕跡が残されていたということで、この地域にかなり多くの古墳が存在したことは間違い無いようです。

 画像は、唯一残存する1基、「野川1号墳」を南からみたところです。


「野川1号墳」

 画像は、東から見た野川1号墳です。
 平成元年(1988)に発行された『川崎市文化財調査集録』には、当時行われた、古墳の調査記録が掲載されており、「高さ2.4m、径15m余りの小円墳で、裾の部分が耕作によって若干削られている他は、遺存状態は比較的良好である。古墳のすぐ脇まで、人家が押し寄せてきている。」と書かれています。この古墳の状況と規模は、現在もあまり変わらないように見受けられますが、周辺の宅地開発はさらに進んでいます。
 そして、その後の平成22年(2010)、古墳の西側にあたる、野川北耕地遺跡第2地点にて行われた発掘調査では、古墳の周溝と考えられる溝状遺構が検出されており、土師器や須恵器などの遺物が出土しています。どうやら古墳であることは間違いないようですね。


「野川2号墳」

 画像の周辺に「野川2号墳」が存在したようですが、宅地開発により残念ながら古墳は消滅しています。昭和42年(1967)に発行された『川崎市文化財調査集録』には、まだ残存した当時の2号墳の様子が記されており、「高さ3.7メートル、墳径16メートルの円墳で、西側の約四分の一は、既に私道によって切断されてしまった。」と書かれています。
 1号墳、2号墳ともに葺石や埴輪は認められなかったようです。
 この古墳は、地元の人のお話によるとなんらかの調査は行われているようなのですが、調査記録が載せられている報告書は見つけることができませんでした。


「野川3号墳(野川ゴルフ練習所前古墳)」

 「野川3号墳」は、画像の舌状台地上に所在したといわれています。
 昭和42年(1967)発行の『川崎市文化財調査集録』には、「野川ゴルフ練習所前古墳」の名称で、残存当時の古墳の様子が記されています。調査当時、かなり古墳の破壊は進んでおり、高さ2.6m、南北径16.7mの規模が残されていたようですが、元はかなり大きな古墳であったと推測されています。塚上は、南北4メートル、東西3メートルの方形の平坦地があり、20余の石塔がコの字型に配列されていたようです。
 古墳はその後、ゴルフ場の拡張により削平されてしまったようです。


「野川3号墳(野川ゴルフ練習所前古墳)」

 台地上の、3号墳の跡地の様子です。
 既に平坦に整地されており、古墳の痕跡は見られませんでした。。。


「北根古墳」

 「野川3号墳」は、1号墳や2号墳の所在地とは若干の距離があり、同じ古墳群に属していて良いものか疑問に思われるのですが、もう1基、野川古墳群に属していても良いのでは?とも思われるのが「北根古墳」です。
 この古墳は、川崎市宮前区野川に所在したとされる古墳で、昭和39年(1964)に行われた整地工事により消滅してしまったようですが、存在が確実視されており、『川崎の遺跡』には宮前区のNo.8遺跡として登録されています。

 この古墳の発掘調査は行われなかったようですが、当時の様子や遺物を実見したという新井清氏により詳細が報告されています。この記録が記載されている、昭和41年(1966)に発行された『考古たちばな』によると、古墳は鶴見川の支流である矢上川の形成谷の北側、細く南西に突き出た丘陵の突端に地形を利用して築造されており、規模は径20mほどの円墳であったとされています。墳丘の中心より北東にやや外れた場所からは直刀1振が、また墳丘の南西裾付近から土器が2点出土しています。
 この直刀は残念ながら散逸して残されていないようですが、土師器が現存しており、古墳時代初期に造られたものであると考えられているようです。
 
 画像は、北根古墳の跡地周辺の様子です。宅地化が進み、古墳の痕跡は全く残されていないようです。。。
 
<参考文献>
新井清「川崎市野川 北根古墳」『考古たちばな』
川崎市教育委員会「川崎市の古墳(一)」『川崎市文化財調査集録 3』
川崎市教育委員会「川崎市内の高塚古墳について」『川崎市文化財調査集録 24』
川崎市教育委員会生涯学習部文化財課『平成27年度 川崎市埋蔵文化財年報』


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  1. 2019/05/25(土) 02:27:07|
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「新作古墳」

「新作古墳」

 今回は、川崎市高津区新作に所在したとされる「新作古墳」の探訪の記録です。

 この古墳について書かれた文献はあまり多くはないのですが、平成元年に発行された『川崎市文化財調査集録 第24集』には、「現在高さ50cm余りの盛土があって、わずかに古墳の痕跡をとどめている。(中略)もとは2基あったが、戦時中の食糧難時代に、2基とも掘り崩して畑にしてしまったとのこと。その際出土した遺物も今は無く、当時の状況を知る手がかりは何も得られなかった。」と書かれています。
 同書には、古墳の所在地を記した分布図が掲載されており、これを参考にすると、画像の左奥の林になっているあたりか、その右手の宅地となったあたりが古墳の所在地ではないかと思われるのですが、正確な場所は突き止めることができず、果たして「高さ50cm余りの盛土」が現在も残されているのか、確認することはできませんでした。

 この古墳を含む、かつての「新作村」にはかなり多くの古墳が存在したと伝えられており、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』にはとても興味深い記述を見ることができます。

 「古塚 四か所あり、一は村の南字田畑の上にあり、此塚六七年前農人誤て鋤を入しに、土崩れて坑開け、中より古陶器二つ徳利の如き形のものを出せり、其の穴をのぞむに、土の方左右へ青石を建てるさま櫃の形なり、土人その石の内三枚を出して、今四間の橋とせり、一は村の南野川村境にあり、弁天塚と呼ぶ、上に弁天の社ある故なり、塚の廻り二十八九間もあるべし、近きころ土人掘穿ちしに子蛇出て足に噛付しゆへ、恐れて闇にしなど奇怪の語あり、是も内より徳利の状にて硝子の如くすき透り、其色いとうるはしきもの出しとぞ、一は同塚の東の方にあり、今は七八坪許にてわづかにその状を遺せり、これも農耕の妨げなりとて先年堀崩せしに、崇寧通宝の古銭あまた及び矢の根三寸ばかりなるもの出たり、その数をひたたしきことなりと云、又大刀四振長刀二柄、鎧のさねをよひ金具まはりの朽たるもの、冑の天空の金物の如きもの出たり、これらをあつめ俵にして埋みしと云、一は字田畑の上にあり、これも甲冑の朽しものなどありしと云、この外仏手台と云所に二つほどありしが、これは皆掘崩して今は平地となれり、何れも故ある人を葬りし所とみえたり」


 「土の方左右へ青石を建てるさま櫃の形なり」とはおそらく埋葬施設について書かれたものであり、その内の三枚、おそらくは天井石が石橋の材料として流用したことが書かれています。また、ほかの古墳から、「大刀四振長刀二柄」や「甲冑の朽しもの」等の遺物が出土したことも書かれています。
 かつてのこの一帯には、かなり多くの古墳が築造され、古墳群が形成されていたものと考えられますが、果たして痕跡は何も残されていないのでしょうか。
 また、「仏手台と云所に二つほどありし」と、ほかに2基の古墳の伝承も記されているようですが、これは新作八幡台遺跡の所在する台地上のことではないかと思われますが、これは江戸時代にはすでに消滅していたようです。


「新作古墳」

 よくわからなかったのが、川崎市教育委員会より発行されている、最新の『川崎の遺跡 2012』や、ネットで公開されている『ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム』には、この場所に古墳の登録が見られないのですが、南東200mほどの地点に「高津区No.78遺跡」として2基の古墳が登録されており、近年発行されている発掘調査報告書等に記載されている分布図では、この2基を新作古墳としているようです。
 この場所も訪れてみました。

 画像は、民家の庭先で築山となっているマウンドです。ガイドマップかわさきの位置情報とは多少のズレはみられるのですが、これが古墳ではないかと思われます。
 実は、このお宅の御主人にお話を聞くことができたのですが、これはあくまで庭の築山で古墳ではないとのこと。かつて所有していて、現在は手放したという土地に古墳があったが、調査が行われたのちに削平され、いまは一軒家の下敷きになっているョ、とのことでした。この削平された古墳とは、おそらくは野川2号墳のことではないかと思われるのですが、新作古墳についての真相は残念ながらわかりませんでした。。。


「新作古墳」

 ちょっと画像では見難いのですが、敷地のさらに奥にも、わずかながらの高まりが垣間見られました。
 実際に古墳が残存するのかどうか不明ではありますが、『川崎の遺跡』や『ガイドマップかわさき 川崎市地図情報システム』に掲載されているもう1基も、なんらかの痕跡が残されているのかもしれませんが、こちらも詳細はわかりませんでした。
 うーん。今回は、痒いところに手が届かない感じになってしまいましたね。。。
 
<参考文献>
伊東秀吉「川崎市の古墳(一)」『川崎市文化財調査集録 第3集』
佐藤善一・伊東秀吉「川崎市内の高塚古墳についてー現状確認調査を踏えて」『川崎市文化財調査集録 第24集』
村田文夫『川崎・たちばなの古代史』


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  1. 2019/05/23(木) 23:45:05|
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「参明藤開山 富士浅間大神(馬絹神社の富士塚)」

「馬絹神社」

 画像は、川崎市宮前区馬絹にある「馬絹神社」です。
 この神社の祭神は伊邪那美命で、応神天皇、大山祇命、菊理姫命が合祀されています。創建年は江戸元禄以前で詳細は不明で、元は女体権現社と称し、明治43年3月に近隣の八幡、三島、熊野、白山神社の4社を併合して神明神社に改称し、馬絹村の村社となりました。昭和61年に総檜造り本殿を新築、社名を神明神社から馬絹神社へと改称されています。


「馬絹神社」

 神社本殿と境内の様子です。
 前回取り上げた「馬絹古墳」は、この馬絹神社の東側に隣接しています。

 この神社の敷地内には、富士塚が一基、存在します。
 これまで多くの富士塚を見学してきた中で、元々存在した古墳に新たに土を盛って築造した富士塚が数多く存在することを知り、馬絹古墳に隣接して、同じ台地の縁辺部に所在するこの富士塚がずっと気になっていました。(実は、最初に馬絹古墳を訪れたときにはこの富士塚を見落としてしまって、6年ぶりにこの場所を訪れました。)


「馬絹神社」

 あまり目立ちませんが、本殿東側の石段の前に「参明藤開山 富士浅間大神」と刻まれた石柱がたてられています。この石段を登った台地上に富士塚が所在します。


「馬絹神社」

 富士塚に向かう参道の入り口に祀られている祠は、源頼朝が馬の袖衣を掛けたといわれる「御神木千年松の祠」です。この御神木は残念ながら昭和16年に枯死してしまったそうですが、枯れた根の一部が祀られています。
 馬絹の地名は、この頼朝公伝説により呼ばれるようになったともいわれているそうです。


「馬絹神社の富士塚」

 石段を登ると、やがて富士塚が見えてきます。
 塚の裾部には富士講碑、二十三夜塔、地神塔などが建てられています。


「馬絹神社の富士塚」

 ようやく頂上まで来ました。
 塚には石段が造られています。


「馬絹古墳」

 この日はまず馬絹古墳を見学して、坂道を降りて鳥居をくぐり、神社を参拝してから石段を上がって富士塚までたどり着いたわけですが、実は馬絹古墳のすぐ隣に富士塚が並んで存在するという衝撃の事実が(笑)。
 富士塚の石段で振り返ると、先ほどまで眺めていた馬絹古墳をもう一度見る、という状況になりました。
 落ち葉が夕陽に染まってとても綺麗です。


「馬絹神社の富士塚」
 
 塚上の様子です。
 
 見学してみてあらためて感じたのですが、台地の縁辺部に馬絹古墳と並んで存在するこの富士塚が、元々は古墳であるという可能性はないのでしょうか。もしこれが古墳だとすると、多少の削平は受けているものの、塚上は綺麗な円形が保たれているようです。
 訪れたのが12月の終わりごろということもあり、地面にはかなりの落ち葉が積もっていたのですが、なんとなく直感的に、そこが地面じゃなくて石室の天井石の上にいるのでは?という気がして、この落ち葉を払ってみて、つま先で軽く地面をトントンと叩いてみました。すると、中央のあたりでは、まるで下に空洞があるかのような振動があるのですが、同じことを隅の方で試してみると、地面の下は詰まっているように振動がない。
 ひょっとしたら、この塚の内部には未盗掘の古墳の横穴式石室が残されており、つまり本当に空間があるのではないか?という妄想が広がってしまいます。

 神様が祀られている場所ですので、発掘調査はなかなか難しいかもしれませんが、とても気になる富士塚でした。
 
<参考文献>
馬絹神社奉賛会『馬絹神社のしおり』
宮前区歴史文化調査委員会『宮前区歴史ガイドまち歩き』


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  1. 2019/05/19(日) 23:39:20|
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