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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「目黒元富士」

「目黒元富士」

 目黒区内にはかつて2基の富士塚が存在していました。このうちの1基は文政2年(1819)に築造された富士塚で、別所坂を登りきった右手の台地縁辺部に所在しており、「新富士」あるいは「東富士」と呼ばれていました。この富士塚は以前、9月19日の回で紹介したものですが、今回紹介するのは新富士から遡ること7年、文化9年(1812)に築造された「元富士」を紹介したいと思います。この元富士は東急東横線代官山駅近く、上目黒1丁目の目切坂を登った上に所在したとされる富士塚で、別名「西富士」とも呼ばれていました。
 この元富士は、丸旦講の先達で麻布善福寺門前の伊右衛門により築造され、明治11年(1878)にこの場所が明治維新の際に活躍した岩倉具視の別荘となった際には、塚は残されたものの石祠や石碑、水盤などの石造物は目黒区大橋2丁目の氷川神社に移されています。その後この場所は東武鉄道社長の根津喜一郎氏の私邸となり、昭和14年(1939)の改築の際に塚は取り崩され、消滅しています。現在のこの場所はマンションとなっており塚の痕跡は何も残されていませんが、跡地前には目黒区教育委員会による説明板が設置されており、画像はその跡地前のようすです。

           目黒元富士跡
                            上目黒1―8
 江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講と
いう団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型
の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、
山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
 マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の
人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、
別所坂上(中目黒2―1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こ
ちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重
の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描か
れています。
 元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(2―16―21)
へ移されました。
                         平成22年12月
                              目黒区教育委員会

 元富士の北側に隣接する旧朝倉家住宅周辺には、かつては複数基の古墳が存在していたといわれ、現在も残存する2基の猿楽塚古墳(北塚と南塚)は渋谷区の指定史跡として保存されています。同じ丘陵上縁辺部に存在したこの元富士が、例えば元々存在した古墳を流用して築造された可能性はないのだろうかと考えたのですが、めぐろ歴史資料館でスタッフの方にお聞きしたところでは、この元富士と新富士は何もない場所に蓄財された富士塚であるということで、古墳流用の可能性はないようです。


「目黒元富士」

 画像は、目黒区大橋2丁目に所在する「氷川神社」を南西から見たところです。旧上目黒村の鎮守であるこの氷川神社の境内には、目黒元富士にあった浅間の石祠や仙元講(丸旦講)の石碑が移されています。富士塚は存在しないようですが、台地の斜面に登山道が造られて「目黒富士」と呼ばれています。


「目黒元富士」

 画像が、氷川神社境内に所在する「富士浅間神社」です。社殿前には「目黒富士」について目黒区教育委員会による説明板が立てられています。

             目黒富士
                          大橋2-16-21
 江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が  
各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富
士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。
 目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に
目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上
(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。
元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年
(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑
を移しました。
 昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の一
角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行
われています。
                     平成22年3月
                          目黒区教育委員会



「目黒元富士」

 富士講の石碑のようす。

<参考文献>
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
目黒区守屋教育会館郷土資料室『新富士遺跡と富士講』
現地説明板


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  1. 2016/11/25(金) 00:57:47|
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「目黒新富士」

「目黒新富士」

 目黒区内にはかつて2基の富士塚が存在していました。このうちの1基は文化9年(1812)に築造されたもので、東急東横線代官山駅近く、上目黒1丁目の目切坂を登った上にあり、「元富士」あるいは「西富士」と呼ばれていました。そしてもう1基が、元富士に遅れること7年後の文政2年(1819)に築造された富士塚で、別所坂を登りきった右手の台地縁辺部に所在しており、「新富士」あるいは「東富士」と呼ばれていました。蝦夷地探検で名高い幕臣・近藤重蔵が自身の別邸に作った富士塚で、眺望が良く、多くの参拝人を集めたといわれています。

 画像は、目黒区中目黒の「別所坂」です。1丁目と2丁目の境を北東へジグザグに折れ曲がって登るこの坂はこの周辺の地名であった「別所」が由来といわれており、古くより麻布方面から目黒へ入る道として賑わったといわれています。ちなみに別所とは『新しく開かれた土地」あるいは「行き止まりの場所」を示すといわれているそうです。
 この坂を登り切った場所が、かつての新富士の所在地です。坂の入口には「別所坂」の碑が立てられており、「かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。」と新富士についてもふれられています。


「目黒新富士」

「目黒新富士」

 別所坂を登り切った階段の右手に目黒区教育委員会による「新富士」についての説明板が設置されています。画像の右手のマンションの奥のあたりが新富士の跡地で、昭和34年(1959)までは残されていたそうですが、残念ながら現在は取り壊されています。


「目黒新富士」

 別所坂を下った新富士跡地の南側にある「目黒区立別所坂児童遊園」には、新富士にあった石碑が移設されています。ここにも目黒区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。

新富士 中目黒2–1
 江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつく
られ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
 この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼
ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文
政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた
近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが
良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴
雑記』)と書かれるほどであった。
 新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙
法蓮華経」(「文政二己卯年六月健之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊
辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
                         平成18年10月
                       目黒区教育委員会



「目黒新富士」

 石碑が保存されている目黒区立別所坂児童遊園で振り返ってみるとこんな風景が。この周辺は昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られており、新富士は大勢の見物人で賑わったといわれていますが、眺めの良さは健在ではあるものの、残念ながらこの日は富士山は確認出来ませんでした。。。


「目黒新富士」

 富士山には、過去の噴火で出来た「風穴」と呼ばれる溶岩洞窟が多数存在しています。この内部に助骨の形や臓器の形を示すものがあり、人間の胎内を連想させることから富士講の人々はこれを胎内洞穴と呼んでいます。この胎内洞穴をくぐりぬけると安産の御利益があるということで、講徒は白木綿の布を襷に掛けて胎内くぐりをして、白木綿を持ち帰って産婦の腹帯にして安産を願うという事が行われていたそうです。
 江戸の各地に築造された富士塚の多くにはこの胎内洞穴が造られているようですが、目黒新富士跡地の隣接地からは、平成3年の発掘調査により胎内洞穴と考えられる地下式遺溝が発見されています。現在は埋め戻されて見ることは出来ないようですが、めぐろ歴史資料館では復元された胎内洞穴が公開されています。


「目黒新富士」

 この胎内洞穴は目黒新富士が所在した南の方向に延びており、壁面に富士講の笠(講)印や文字が線刻されていました。奥行き6mの横穴の奥には祠が造られており、祠の直下からは御神体と思われる「大日如来」像が発見されたそうです。
 画像は、めぐろ歴史資料館で公開されている壁面の線刻のレプリカのようすです。


「目黒新富士」

 文政9年、この富士塚にまつわるある事件が起こりました。
 あるとき、山正廣構という富士講の講中の集まりの中で、下渋谷村の百姓である半九郎の屋敷地が眺めの良い場所であることから、ここに富士塚を築造すると参拝人が多く集まり、講員も増えるのではないかという意見が出ました。しかし、百姓の身分での富士塚の築造は難しいと考えた半九郎は、自身の所有地の一部を近藤重蔵氏の抱屋敷(別邸)としてこの邸内に富士塚を築くという意向を、近藤宅に出入りしている者を通じて打診したところ両者の考えは一致、早速邸内の残土を集めて富士塚が築造されます。この塚は高台にあったため後に広重の『名所江戸百景』に描かれるほど見晴らしが良く、江戸の人びとの行楽の名所として大変な人気を集めます。これに合わせて半九郎は自宅で手打ち蕎麦の店を始めますが、こちらも大繁盛となったようです。
 その後、近藤は別邸に招待した客に半九郎の店から出前した蕎麦や酒でもてなしますが、代金の支払いはいっさいしませんでした。これに対して半九郎は、採算が取れなくなっては困ると考え、近藤からの注文には応じない事にします。近藤は腹を立て、半九郎の店との間に大木を植えて生垣を造り、半九郎の店から富士塚が見えないようにしてしまいます。半九郎は、話が違うと代官中村八太夫に提訴しますが、代官は相手が旗本であることから取り合いません。半九郎は仕方なく仲裁者を立て、生垣の撤去を申し入れたところ、近藤は生垣を撤去する人手がないので半九郎方で生垣を刈り取ってよいという返事をしたようです。半九郎はその翌日、すぐに生垣を刈り取ってしまいますが、これを見て腹を立てた近藤の忰の富蔵は家来を連れて半九郎宅に乗り込み、半九郎と半九郎の倅、半九郎の妻と抱えていた子供、日雇いの5人を斬り殺してしまいます。
 半九郎にしてみれば、土地を提供して自力で塚を築いたにも拘らず土地も塚もとられ、店の売りである富士塚の見物も出来ず、見物人が塚に入ることも出来ない状況は理不尽に感じたでしょうし、近藤にしてみれば話に乗ってやったのだから酒と蕎麦くらい振る舞え、といったところだと思いますが、感情のもつれから起こってしまった事件なのかも知れません。。。

<参考文献>
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』
目黒区守屋教育会館郷土資料室『新富士遺跡と富士講』
現地説明板


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  1. 2016/09/19(月) 01:47:54|
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「庚申塚(別所坂上庚申塔)」

目黒区の庚申塚

 画像は、目黒区中目黒1丁目に所在する「別所坂上庚申塔」を東から見たところです。6基の庚申塔がおさめられている庚申堂で、別所坂を登りきった台地の縁辺部に所在しています。昭和10年(1935)に目黑區大觀刊行會より発行された『目黑區大觀』には「上目黑別所坂の上重信常直氏邸の前にある庚申堂附近で、新編武蔵風土記稿に『上目黑別所にある、除地五坪』とある。元祿の頃よりさゝやかな堂宇が建てられ、後近年に至り昭和五年頃上・中兩別所の有志が發起となつて七百餘圓の寄附を集め、祠堂の大修築を施こした。現在鏡域二十五坪五合、數年前まで古松が殘つて居た。」と書かれています。江戸時代には庚申堂は存在しており、その「附近」ということはこの庚申堂とは別の場所に塚が存在した、ということのようですが、すでにこの庚申塚は消滅しており、所在地はわからなくなっています。


目黒区の庚申塚

 この別所坂上庚申塔に近い恵比寿駅周辺には、加計塚古墳や渋谷塚古墳、渋谷区の遺跡番号55番の無名墳など、古墳ではないかと考えられている塚が多く存在したとされており、古墳群の存在も想定されているようです。また、北西側の台地縁辺部には猿楽塚の北塚と南塚の2基が現存しており、こちらも古墳ではないかと考えられています。
 別所坂上庚申塔に隣接する場所はかつて存在した「目黒新富士」の跡地です。富士塚が元々存在した塚や古墳を流用して築造された事例も多く確認されていることから、この庚申塚や新富士が古墳であり、この台地縁辺部に古墳群が存在した可能性はないだろうかと考えて調べてみました。庚申塚については破壊の際の遺物の出土の伝承等はなく、また学術的な調査も行われていないようです。また、新富士についてめぐろ歴史資料館でお訪ねしたところでは、何もない場所に築かれた富士塚であり古墳流用の可能性はないのではないかとのことです。残念ながらこの周辺での古墳の存在の可能性は今のところ考え難いようです。。。


目黒区の庚申塚

 昭和36年(1961)に東京都目黒区より発行された『目黒区史』では「従来何々塚とよばれて古墳の可能性をもつもの」として12基の塚が掲載されており、この中に「庚申塚」が記載されているのですが、この庚申塚は所在地が「上目黒2丁目」と記されています。ということは、中目黒1丁目に所在する「別所坂上庚申塔」とは別の庚申塚が存在するのだろうか?と考えましたが、上目黒2丁目に所在する塚について書かれている文献は見つけることが出来ず、詳細はわかりません。
 ちなみに上目黒2丁目には2ヶ所に庚申塔が残されており、画像はこのうちの1ヶ所である「天祖神社」を南東から見たところです。この神社の境内に庚申堂があり、2基の庚申塔が祀られています。


目黒区の庚申塚

 画像が「天祖神社庚申塔」です。塚らしきマウンドは見当たらないようです。


目黒区の庚申塚

 画像は、上目黒2丁目に所在するもう1ヶ所の庚申塔で「けこぼ坂庚申塔」です。目黒区役所前の、駒沢通り沿いの坂の途中の歩道に残されています。
 やはりこの場所にも塚は存在しないようです。果たして、開発が進む以前には塚の上に祀られていたのでしょうか。。。
 

目黒区の庚申塚
 
<参考文献>
目黑區大觀刊行會『目黑區大觀』
東京都目黒区『目黒区史』
東京都教育委員会『1985 都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
目黒区教育委員会『めぐろの文化財』


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  1. 2016/09/15(木) 01:24:06|
  2. 目黒区の古墳・塚
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「三合塚」

「三合塚」

 「三合塚」は、目黒区南1丁目に所在する3基の塚の総称で、現在は「目黒区立富士見台公園」という施設内に残存しています。『東京都遺跡地図』には目黒区の遺跡番号26番の”時期不明の塚”として登録されています。

 この三合塚は古くからその存在を知られていたと考えられ、周辺地域の字名にもなっていました。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の荏原郡碑文谷村の項には「三合塚 西南の方なり、塚の数三あるによりかく唱ふとぞ、或は三合塚とも呼り、もと塚の名なれども土人いつとなく此邊の字とせしとぞ、」と書かれています。また、その後昭和に入るとこの塚は古墳ではないかと考えられるようになり、昭和36年に発行された『目黒区史』には「従来何々塚とよばれて古墳の可能性を持つ」とされる12基のうちの1基として紹介されており、「現在富士見台児童遊園となっているが、富岡丘蔵の所有地内にある。この面積約460平方メートル、本墳は西寄りに大きい円墳形のもの、東寄りは小さい三角形に近い墳丘からなり、二墳と考えられてきたが、詳細に調査すると、両者の距離があまりに近すぎるのと、現在のように遊園地になる前の現状とを総合して、これは前方部を東にむけ、長さ20メートルほどの小形前方後円墳ではないかと考えられるようにいたった。そして、さらに積土の状態を検索して、大体前方部幅5メートル、後円部直径7 メートル、高さ今の路面より4メートル(現在3メートル)、前方部高さ3メートル(現在2メートル)ほどのものであったらしく、周湟の存否は不明であった。現在このくびれ部に小祠が建てられているが、おそらくこの古墳信仰に始まるものと考えられる。(後略)」と書かれています。

 画像は、公園内の東側に所在する塚を北西から見たところです。かつてはこの小さなほうの塚が前方部であり、西側の大きな塚が後円部であると考えられていたようですが、昭和59年に行われた確認調査によりそれぞれが独立した塚であることがわかっています。また、周囲には堀を巡らせた跡も確認されていますが、どういう性格の塚なのか、また築造された時期などは不明であるようです。


「三合塚」

 三合塚は、明治のころまでは塚とその周囲が雑木林となっており、塚の頂上や横には多数のキツネの巣穴が存在したといわれています。「ひさご形」と考えられた墳形と周囲の濠もはっきりと残っていたようです。昭和31年に富士見台児童遊園として開園すると敷地内には砂場やブランコ、シーソーなどが造られ、塚上には2箇所に滑り台が造られたようですが、個の滑り台の設置により墳形はかなり損なわれてしまったようです。
 画像は、5年程前の塚のようすですが、まだ木製の遊具が残されているのがわかります。現在は、塚に設置された遊具は全て取り払われているようです。。。


「三合塚」

 画像は、南西側にある現在の塚のようすです。後円部であると考えられていた塚ですが、昭和のころの写真を見るとかなり大きな塚であったようですが、かなり崩されて原形は留めていないようです。この2基の塚の間には、「三合塚稲荷社」の社殿が置かれていたようですが、現在は見られないようです。


「三合塚」

 2基の塚の遠景です。これが前方後円墳であれば右側が後円部、左側が前方部と考えられていたようですが、やはり古墳ではなかったようです。。。


「三合塚」

 画像は、富士見台公園内の北西側に所在する3基目の塚を北西から見たところです。
 塚上には「祝 皇太子殿下 雅子妃殿下 ご成婚記念樹」と書かれた碑が立てられ、ハナミズキが植えられています。

<参考文献>
東京都目黒区『目黒区史』
目黒区郷土研究会『目黒区郷土研究 第86号』
東京都教育委員会『都心部の遺跡 1985』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
現地説明版


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  1. 2016/08/16(火) 00:33:08|
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