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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

「稲荷公園」

 画像は、北区十条台1丁目にある「稲荷公園」を南西から見たところです。この「稲荷公園」は、東京工廠の構内社の「四本木稲荷神社」が所在したとされるところで、この四本木稲荷神社は古墳の上に祀られていたといわれています。

 この周辺はかつて江戸時代には「七軒町」と呼ばれる集落で、七軒の農家があったことから七軒町と呼ばれていたそうです。四本木稲荷神社はこの七軒町持ちの無名の神社だったそうで、この神社は4本の大木に囲まれていたため、村の人々からは「四本木(しほんぎ)稲荷」と呼ばれていたそうです(当時の数字の読み方で四本は”よんほん”ではなく”しほん”と数えていた)。その後、日露戦争が始まった翌年の明治38年(1905)に小石川からこの王子町十条に陸軍造兵廠が移転することとなり、この造兵廠建設の際に、それまで七軒町持ちの小祠であった四本木稲荷を構内社として引き続き祀るようになったそうです。
 このあたりのいきさつについて、『北区史 民俗編1』には次のように書かれています。
 
…四本木稲荷神社が十条の工場で祀られるようになった理由として、当時の陸軍造兵廠に勤務していた根岸新一氏の「北区における旧軍の施設」(『東京都北区立郷土資料館調査報告』第一号、昭和58年3月)によれば、十条台地の十万坪を買収して十条兵器製造所を建設後、災禍が続発し、
  原野を整地するに当って、処々に散在していた幾つもの古墳を用捨なく取り壊した祟りかもしれない、という噂が流れたりしたので、塚の霊を用地の東北隅に祀って祭神を稲荷大明神とあがめ、その後は、終戦までも工廠の守護神として四本木稲荷と称していた。
という。
 十条兵器廠の工場建設後、災害が頻発した。工場建設工事の際に、従来存在していた塚を破壊したための祟りだとみなされ、慰霊のために四本木稲荷神社が十条の兵器廠で祀られるようになり、ついで滝野川にも分霊され、祀られるようになったわけである。(『北区史 民俗編1』310ページ)


「稲荷公園」

 昭和3年(1928)に発行された『王子町史』によると、かつて王子周辺に残されていた7基の塚を総称して「七曜塚」と呼ばれる塚があり、「亀井塚」と呼ばれる4基の塚のほかに「供養塚」、「妙観塚」と、「王子新道の無名の塚」があったとしていますが、この「四本木稲荷神社」が鎮座していた塚が「王子新道の無名の塚」出会った可能性もあるかもしれません。
 「四本木稲荷神社」は滝野川に移されており、現在この地は「稲荷公園」として整地されているため古墳の痕跡を見ることは出来ませんが、公園内に招魂碑が1基残されています。


「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

 さて、画像は北区滝野川3丁目にある「四本木稲荷神社」を南から見たところです。この神社の本殿は、終戦後に十条の四本木稲荷神社から移されたもので、滝野川のもとの本殿は境内摂社になっています。この滝野川の四本木稲荷神社も古墳の上に建てられているといわれており、「東京都遺跡地図」のインターネット公開版には北区の遺跡番号24番の古墳として登録されています。”径29m、高さ1mの円墳”とされていますが、発掘調査はされていないため詳細は不明です。


「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

 画像が「四本木稲荷神社」の社殿です。『北区史 通史編 原始古代』によれば、積極的に古墳であるという根拠には乏しいと考えられているようですが、もしこの塚が古墳であるということになれば、「四本木稲荷神社」は古墳から古墳へと移った世にも珍しい神社ということになりますが、今後の調査が待たれるところですね。


「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

 画像は、西から見た「四本木稲荷古墳」です。
 この角度から見ると古墳らしく盛り上がっているのがわかります。


「四本木(よもとぎ)稲荷古墳」

 神社の北側の公園から見たところです。大きな石が置かれています。。。

<参考文献>
歴史図書社『王子町史』
北区史編纂調査会『北区史 民俗編1』
東京都北区『北区史 通史編 原始古代』
小野磐彦『北区の風土記』

  1. 2014/04/23(水) 00:11:14|
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「滝野川古墳」

「滝野川古墳」

「滝野川古墳」は北区滝野川3丁目の旧都立王子工業高校校庭に所在したとされる、北区の遺跡番号26番の古墳です。王子工業高校は2009年3月に閉校しており、現在は2011年4月に開校した王子総合高等学校の敷地となっています。画像はその王子総合高等学校を南西から見たところです。
 古墳は校庭の整地のため、昭和37年9月26日から10月6日にかけて王子工業考古学部により緊急調査されています。『日本考古学年報15』には発掘当時の記録が次のように書かれています。

東京都北区滝野川古墳

 調査概要 石神井川の第2段丘上にある円墳で、校庭整地のため、緊急調査をしたのであるが、大きさは南北の径約6.2m、東西の径約7.5mである。
 発掘は中央部に榎の根が残存していたため、その北部を巾メートル、長さ2メートルにわたってトレンチを入れたところ墳丘の中心より北に巾1.5メートル、厚さ10センチメートルの粘土の張り出しを認めた。南側の相対的位置に巾1.5メートル粘土の拡がりを僅かながら認めることが出来た。中心部は発掘しなかったため南北に認められた粘土のが拡がりが連続するものか否かは不明であった。北部に拡がる粘土層をはいだところ、下はローム粒をまじえた赤褐色土層で、この層から土師器の細片が散布した状態で発見された。表土は攪乱されており、黒土に交じって近世の陶器片が発見された。(『日本考古学年報15』153ページ)


 この『日本考古学年報15』には古墳時代の項に記載されていますので当時は古墳であると考えられていたようですが、現在では積極的に古墳であるという根拠に乏しく、塚ではないかと考えられているようです。

<参考文献>
日本考古学協会『日本考古学年報15 昭和37年度』
東京都北区教育委員会『文化財研究紀要 第14集』

  1. 2014/04/21(月) 03:49:43|
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「甲胄塚古墳」

「甲胄塚古墳」

 画像は、上中里一丁目にある「平塚神社」を南西から見たところです。この平塚神社の拝殿の裏手に「甲胄塚古墳」が所在しています。

 この平塚神社と甲胄塚古墳について、敷地内に設置されている説明板には次のように書かれています。


 平塚城伝承地
 平 塚 神 社
 平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあっ
た場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁
起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代
の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平
塚城という城館をつくります。
 平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の
逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っ
ていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は
義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋
め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作
り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本
殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の
起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この
地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文
明十年(一四七八)一月、泰経の時代に太田道灌によって
落城してしまいます。
 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった
山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈
願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずか
らの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買っ
た田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知
った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五
〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
平成四年三月             北区教育委員会


「甲胄塚古墳」

 「甲胄塚古墳」は北区の遺跡番号28番の古墳として登録されており、『東京都遺跡地図』のインターネット公開版によると、径40m、高さ3.5mの円墳であるとされています。塚の一番高いところに記念の石碑が建てられているそうですが、古墳の所在する平塚神社の拝殿の裏手は通常は非公開となっていて敷地内に立ち入ることは出来ません。『北区史』によると、「銀環」出土したといわれていることから古墳の可能性が考えられているそうで、塚の斜面には横穴らしいものが見えているそうですが、残念ながら柵の外からは観察することは出来ませんでした。。。

<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
現地説明版

  1. 2014/04/19(土) 01:29:01|
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「駒塚」

「駒塚」

 画像は、北区堀船3丁目の「駒塚」が所在したとされる推定地周辺を西から見たところです。

 『復刻版 堀船郷土史』によると、荒川河岸にある佐藤製衡所の敷地内に女体権現の小祠が祀られており、これが「駒塚」であるとされています。祠はかつては3、4本の樹の下に石碑と共に鎮まっていたそうですが、昭和20年4月の爆撃で跡形もなく消滅、その後は小田原の道了尊が祀られていたそうです。
 画像の中央に流れているのが石神井川の終点にあたる地点で、奥を流れているのが隅田川です。むかしの石神井川はこの地点より北側(画像の左側)を蛇行して流れており、画像左に見える集合住宅から現在の石神井川にかけての一帯が、佐藤製衡所の敷地であったようです。恐らくこの周辺のどこかに「駒塚」が所在したのではないかと思われますが、塚は消滅して痕跡は残されていないようです。『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』には、「駒塚と伝え残して来た地点は石神井川の河口と梶原の渡し場とのちょうど中間の旧陸軍ドック(後の陸軍専用地)への掘割の河中である。」と書かれており、これによれば画像の石神井川の右側辺りが推定地となるように思います。

 昭和3年(1928)に発行された『王子町誌』にはこの「駒塚」について、「往昔豊島清光の子、刑部大夫清泰が、馬術の練習中に、誤って荒川の奔流に馬を乗入れて水死したので、その馬を埋めたのが此の塚だといふことである。」と書かれていますが、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「其亡骨を川端へ葬り、馬をも爰へ埋みし故名づくと云。」とも書かれています。これに対して『隅田川とその両岸 補遺(下巻)』では「故意かどうか清康を清泰とかえ、その「亡骨を川端へ葬り」との表現といい「馬をもここへ」という表現などは少なくとも武蔵権守豊島清光の長子に対する言ではない。豊島氏宗家を継ぐべき清康を川場に葬りというのさえおかしい」としており、また「この場所は昔浅間ヶ淵と呼んだところで、水流がゆるやかで水が淀んだ場所であり、地形的にいっても溺れ死ぬような場所では決してない」とも書かれています。
 この言い伝えが史実でないようであれば、「駒塚」が古墳であった可能性も考えられると思いますが、検証出来ないのが残念なところです。。。

 ちなみにこの「駒塚」の遺物についての言い伝えを見つけることは出来ませんでしたが、「駒塚」ではなく、堀船3丁目に所在したとされる「梶原塚」や豊島5丁目の「大道法師の塚」の傍にあったとされる小さな塚から馬の骨のような物が出土したと云われているところが興味深いところです。


「駒塚」
 
 画像は、北区豊島2丁目にある「若宮八幡神社」です。この豊島若宮八幡社について『新編武蔵風土記稿』には「若宮八幡社、豊島清光ノ子清泰ヲ祀レリト云、村民持」と記されていますが、これも豊島清康の霊を祀るところということになるようです。『王子町誌』には、この若宮八幡神社から260mほど南に駒塚がある、と書かれています。


「駒塚」

 『王子町誌』に書かれていた「若宮八幡神社から260mほど南」周辺を散策していて見かけたのが、画像の祠です。堀船3丁目のタバコ屋さんの敷地内に残されています。場所的に気になる祠なのですが、この祠が「駒塚」に祀られていたものと同一のものかはわかりません。。。
 
<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
東京都北区教育委員会『北区の昔がたり』
名著出版『北区の歴史』
芳洲書院『補遺 隅田川とその両岸(下巻)』
真言宗豊山派 福性寺『復刻版 堀船郷土史』

  1. 2014/04/13(日) 23:58:35|
  2. 北区/その他の古墳・塚
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「梶原塚」

「梶原塚推定地」

 画像は、「梶原塚」があったとされる北区堀船3丁目にある「王子ポンプ所」を南西から見たところです。

 この「梶原塚」については、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』のほか『夢跡集』、『埋木花』といった多くの文献に記述がみられるようです。これらによると、この地はかつて太田道灌の子孫で戦国時代の武将である梶原政景の屋敷があり、政景の死後祀られたのがこの「梶原塚」であるといわれています。『武蔵演路』という古文書には、洪水で崩れた梶原塚を村人が修復したと記されており、かつては五六畝もあった塚は縮小して二三畝となり、塚には松の木が植えられていたとされています。
 その後、明治37年(1904)の火工廠貯炭場の拡張により塚は崩され、塚にあった石仏や塔は近くにある「福性寺」に移されています。


「福性寺」

 画像が、北区堀船3丁目にある「福性寺」です。梶原塚は、このお寺に移されています。


「梶原塚の宝篋印塔」

 画像が「福性寺」の本堂前に移された現在の梶原塚で、中央に見えるのが「宝篋印塔」です。天保2年(1831)に再興されたもので、明治37年(1904)に福性寺に移転されています。『復刻版 堀船郷土史』によると、梶原塚は荒川の水辺にあり、塚を取り囲むように宝篋印塔や数基の石碑が立ち並び、周囲には数本の大樹や竹、雑草が生い茂っていて足を踏み入れる人はいなかったそうです。また、『補遺 隅田川とその両岸(下巻)』には土地の古老の話として「当時荒川の水辺に近く土饅頭があり、それを取り囲んで宝篋印塔や石碑が数基並び、周囲には大樹が数本空を突いて高く茂り、下は竹や雑草でおおわれていた。また明治の中頃には大きな胡桃の木があり実の熟する季節には付近の子供達がその実を拾って楽しんだ」と書かれています。
 この宝篋印塔を移す際には塔の下から古銭や馬の骨らしきものとともに蛇が出てきたと云われており、塚を壊した人はその後、病気になったり死んだりしたために、蛇の祟りではないかと地元の人々の話題になったそうです。


「梶原塚の碑」

 現在の梶原塚には『当所地名発祥之処』と記された石碑が立てられています。

 この周辺はかつては「梶原」という地名で呼ばれていたそうで、読売新聞東京北工場の周囲に巡る「堀船周回ロード」に建てられている説明板には、この梶原塚とその地名の由来について次のように書かれていました。

   『堀船』の名の由来

 堀船の名は, 堀之内村と船方村とが合併してできたものである。 江
戸時代から明治22年まで, このあたりは梶原堀之内村であった。 しか
し、昭和7年に東隣の船方村と合併して堀船という地名になった。
 足利時代末に、太田道灌の孫であり、太田資正(三楽斎道誉)の子
である梶原政景が今のポンプ場(堀船3丁目の下水道局王子ポンプ場)
あたりに屋敷を構えたと言われている。その屋敷の内=堀の内という
ことで、梶原堀之内村と呼ばれていた。梶原の姓は、永禄元年(1558)、
古河公方義氏の元服の時に太刀役を務め、梶原の姓を与えられたとい
う説(『異本小田原記』)と、同4年、長尾景虎が上杉姓と関東管領
を譲られた拝賀の時に与えられたとする説(『北条記』)がある。
(永禄5年の政景の初見史料では、すでに梶原を名乗っている。)
 梶原政景は、下総国の土豪で柿岡城主であり、「弓矢打物達者にて、
鬼にも神にも逢ふべき器量」で、和歌、手跡・早歌・乱舞・馬上・鞠
など、諸芸にも秀でていたという(『異本小田原記』)。福性寺の本堂
前に「地名発祥梶原塚」という標石があり、梶原塚と呼ばれている。
 船方村は、豊島の7つの村の1つで、江戸時代に船の組み仲間とし
て有名な船頭の一族がこのあたりに住んでいたと言われている。
 町の名前が堀船になっても、梶原という呼び方はこの地に住む人の
愛着や郷愁からか、梶原○○○と呼ばれるところも多いようである。

【参考】東京都北区立堀船小学校創立70周年記念「わたしたちの堀船」
                        平成3年12月7日


「梶原塚」「梶原塚」

 ほかに、文政9年(1826)銘の地蔵や如意輪観音石仏も保存されています。
 『新修 北区史』ではこの「梶原塚」について「塚は5、6畝の広さをもち、梶原氏の墳墓といわれているが古墳文化時代のものであろう」としています。古銭や馬の骨が出土しているという伝承からすると古墳ではなく塚であった可能性も考えられるかと思いますが、今となっては詳細はわかりません。


「復刻版 掘船郷土史」

 画像は、福性寺でいただいた『復刻版 堀船郷土史』で、表紙には『江戸名所図会』に描かれた梶原塚が載せられています。地蔵や石仏は見えますが、宝篋印塔は見えないようです。
 訪れた日には福性寺の方から声をかけていただき、ありがとうございました。いただいた資料はとても参考になりました!

<参考文献>
東京都北区役所『新修 北区史』
名著出版『北区の歴史』
東京都北区教育委員会『北区の昔がたり』
芳洲書院『補遺 隅田川とその両岸(下巻)』
真言宗豊山派 福性寺『復刻版 堀船郷土史』
現地説明版

  1. 2014/03/02(日) 01:54:28|
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