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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「箱根山」

「箱根山」

 画像は、新宿区戸山町2丁目の戸山公園内に所在する「箱根山」を北から見たところです。標高44.6mと、山手線内で最も標高が高いとされる人造の築山です。

 この一帯は、江戸時代は、徳川家御三家の一つである尾張家の下屋敷でした。このお屋敷は、寛文7年(1667)から元禄7年(1694)までの27年の歳月を費やして完成しており、回遊式庭園には二十五景をしつらえる、水戸家の後楽園と並ぶ名園であったといわれています。そしてその後、相次ぐ火災や風被害により次第に荒廃したままとなり、安政六年の青山大火で類焼した後は復興されずに、明治維新後には陸軍戸山学校となっています。
 そして終戦後の昭和24年3月、日本で初めての水洗式トイレ完備の集合住宅一千戸近くが完成して戦災者や引揚者が入居、現在の戸山ハイツが完成します。これは、戦後の団地のはしりであるそうです。
 箱根山は、江戸時代の庭園内に造られた「玉円峰」と呼ばれる築山です。その後、明治天皇が戸山学校へ御臨幸の際には必ずこの山に登られてあたりを眺められたということで、これを記念して「明治天皇御野立所」として残されています。


「箱根山」

 別角度から見た箱根山です。かなり大きな築山であることがわかると思います。箱根山の麓に東京都により立てられている説明板には、この地域の歴史について次のように書かれていました。

 箱 根 山 地 区 の 歴 史
 この地区は、その昔 源賴朝の武將 和田左衛門尉義盛の領地で、
和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれ
ていた。
 寛文八年(一六六八)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷とな
り、その総面積は約十三万六千余坪(約四十四万八千八百余㎡)に
及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。
この「戸山荘」は、寛文九年(一六六九)に工事を始め、天和(一
六八一~一六八三)・貞享(一六八四~一六八七)の時代を経て元禄
年間(一六八八~一七〇三)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
 庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央
に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・
渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝
地が造られていた。
 なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道
五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられて
いる。
 その後、一時荒廃したが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)の初
め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍
をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」
と折り紙を付けしめたほどであった。
 安政年間(一八五四~一八五九)に入り再び災害にあい、その姿
を失い復旧されることなく明治維新(一八六八)を迎えた。
 明治七年(一八七四)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大
戦後は国有地となりその一部が昭和二十九年から今日の公園となっ
た。
 陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を
「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲
ぶ唯一のものとなっている。
             平成2年3月公園整備を記念して
                           東京都



「箱根山」

 画像は戸山公園内に立てられている「陸軍戸山学校址碑」です。明治6年には陸軍戸山学校が設置され、教育や研究が行われていたそうです。

 この地は和田戸という武士の
館の跡で源賴朝が源氏の勢ぞろ
いをした所と伝えられ後代和田
戸山と呼ばれた寛文年間尾張徳
川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等
かずかずの建物と箱根山を中心
とし東海道五十三次に擬した風
雅な庭園が造成された明治六年
その地に兵学寮戸山出張所が設
けられ翌七年陸軍戸山学校と改
称されて以来約七十年にわたっ
て軍事の研究教育が行なわれ国
軍精強の基を培ったばかりでな
く国民の体育武道射撃音楽の向
上に幾多の寄与をした記念すべ
き地であるこの度東京都がこの
地に緑の公園を整備されるにあ
たってこの記念碑を建てて東京
都に贈る
 昭和42年11月
 元陸軍戸山学校縁故有志一同


「箱根山」

 富士信仰に基づき、都内各所に富士山を模して築造された「富士塚」は、元々存在する古墳を流用したものも少なくないようです。新宿区内では、高田富士や上落合富士が、元々存在した古墳を利用して築かれたといわれています。さらには、同じように古墳を流用して造られた「経塚」や「庚申塚」なども存在します。
 また、江戸時代の下屋敷の庭園の築山などに利用されたことにより、運良く崩されずに残されたという古墳も存在するようです。
 この箱根山もかつては尾張家の下屋敷の敷地内に造られた築山で、台地の縁辺部に所在しています。ひょっとしたらこの場所にも元々存在した古墳があり、これを流用して箱根山が築かれた可能性はないものだろうかと考え、その答えを求めてこの地域の郷土資料を色々と調べていたのですが、そのような文献を見つけることはできませんでした。

 この箱根山の東側、現在の喜久井町周辺は地名の由来となった「供養塚」と呼ばれる塚のあった場所といわれており、さらにその周辺には古来古塚が多くあり、これを「十塚」と呼んだのが「戸塚」になったとする説が江戸時代の地誌類に記されており、この古塚の多くは古墳だったのではないかといわれている地域です。
 ちなみに昭和57年度から59年度にかけて東京都教育委員会が実施した東京都心部遺跡分布調査では、古地図を検討することにより当時すでに消滅していた古墳の位置の復元が行われており、この調査結果が掲載されている『都心部の遺跡』には新宿区戸山、若松町周辺の地形図が掲載されています。この古地図には、「十塚」の伝説を裏づけるかのようにかなりの数の塚状の地形(すべてが古墳かどうかは別として)を確認することが出来ます。
 また、北東に700~800メートル程の地点には、「富塚」と呼ばれる古墳が存在したといわれており、この古墳は「高田富士」と呼ばれる富士塚に改変された後に、早大9号館建設のため削平されて消滅しています。富塚は前方後円墳だったともいわれていますが、そこからさらに300メートル程の地点からは、近年の発掘調査により2基の円墳が検出されています。
 そしてさらに、南に隣接する「穴八幡宮」は、丘陵斜面に築造された横穴墓だったともいわれています。

 周囲の状況としては、ここに古墳が存在したとしてもおかしくない場所ではないかと思うのですが、こればかりは箱根山を掘り崩してみないと真相はわかりませんね。。。


「箱根山」

 敷地内には教会があって幼稚園が併設されているのですが、この建物の土台の部分には、陸軍戸山学校の時代から存在したという将校の集会所の建物がそのまま使われているようです。
 

「箱根山」
 
 この箱根山を登頂して戸山公園サービスセンター(大久保地区)を訪れると、自己申告することで「登頂証明書」を発行してもらえます。
 私は、この箱根山を最初に訪れた時はこのシステムを知らずに帰宅してしまったのですが、(そもそも時間が遅くてサービスセンターに行くのが無理だったし。笑。)今年に入ってから再登頂してめでたく証明書を発行していただきました。

<参考文献>
羽賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都建設局・財団法人新宿生涯学習財団『下戸塚遺跡Ⅳ』
新宿歴史博物館『ガイドブック新宿区の文化財 史跡(西部編)』



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  1. 2017/10/19(木) 01:16:27|
  2. 新宿区の古墳・塚
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「下落合横穴墓群跡」

「下落合横穴墓群跡」

 「落合横穴墓群」は、新宿区下落合2丁目に所在したとされる古墳です。『東京都遺跡地図』には、新宿区の遺跡番号6番の「横穴墓」として登録されています。

 この横穴墓群は、薬王院の南西側、西から東へ流れる妙正寺川左岸の落合台地の南裾の台地先端で宅地造成中に偶然発見された横穴墓です。当時、この工事を行っていた現場作業員は突然の人骨の出土に驚き、一度はこの出土人骨と横穴を埋め戻してしまったのだそうですが、その後、戸塚警察署に連絡、刑事事件として取り扱う必要はないものと判断されたようです。
 その後の調査により、4基の横穴が確認されています。

 1号横穴は、パワーシャベルによって破壊されていたものの奥壁と床面の一部は残されており、3号と類似のものであったようです。
 2号横穴は1号と3号の中間にあった横穴で、人骨の出土に驚き、埋め戻した後に戸塚警察署に連絡したというのが、この2号横穴であるようです。この遺構は、完全に破壊されて失われていましたが、2体分の人骨の一部と直刀一振が採集されています。
 3号横穴は切道、玄室、羨道の各部が明確に残されており、実測図が作成されています。副葬品は何も出土しなかったようです。
 4号横穴は、行なわれた調査においては確認されていないようですが、パワーシャベルの運転者の証言により確認された横穴で、2号の北3mほどの1号と2号の中間にも発見したと伝えられているようです。
 また、かつて昭和33年9月の狩野川台風の際に、1号横穴の北約15mほどの崖がくずれ、人骨が出土したことが、落合新聞(39号)に記されています。この人骨は、東京大学教授の鈴木尚氏が1300年前のものと推定したということであり、この年代から横穴古墳埋葬のものと考えられることから、下落合横穴墓群は少なくとも5基の古墳が存在したということになるようです。


「下落合横穴墓群跡」

 1枚目の画像は、同じ下落合2丁目にある下落合弁財天です。残念ながら古墳はその後の宅地造成工事により消滅しましたが、下落合弁財天の境内に、新宿区教育委員会による説明板が設置されています。

史跡 下落合横穴墓群跡
所在地:新宿区下落合四丁目三番
新宿区登録有形文化財 考古資料
下落合横穴墓出土品
所 在 地 新宿区三栄町二十二番地
         新宿歴史博物館蔵
登録年月日 昭和六十一年三月七日

 ここ下落合弁財天の裏手一帯は、昭和四十一年(一九六六)
七月、宅地造成中に発見された下落合横穴墓群の跡である。
 下落合横穴墓群は、七世紀後半から八世紀初頭頃のものと推
定され、妙正寺川に臨む落合台地の側面に、川の氾濫を避ける
ように四基の横穴墓が確認された。
 出土品のうち人骨二体と直刀(刀身七十九センチメートル)
は、新宿区登録有形文化財に登録され、現在は、新宿歴史博物
館が所蔵し、横穴墓の断面模型などとともに常設展示のなかに
展示されている。
平成七年八月 東京都新宿区教育委員会



「下落合横穴墓群跡」

 横穴が発見された正確な所在地はもはやわかりませんが、だいたいこの辺りなのではないかという場所が画像の地点です。すでに宅地化が進められており、古墳の痕跡を見ることはできないようです。

<参考文献>
東京都新宿区図書館『落合の横穴古墳』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
羽賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』


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  1. 2017/10/17(火) 00:35:54|
  2. 新宿区の古墳・塚
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「擂鉢山」

「擂鉢山」

 画像は、新宿区西新宿1丁目25番地の新宿センタービル周辺を南東から見たところです。
 この一帯は、幕府旗下渡邊氏の下屋敷だったところで、「擂鉢山」と呼ばれる小丘があったといわれています。擂鉢山という名称からは前方後円墳を連想したくなるところですが、『東京都遺跡地図』には特にこの場所に登録されている古墳(遺跡)は存在しないようです。新宿副都心の高層ビル群に存在したといわれるこの擂鉢山は古墳だったのでしょうか。

 昭和6年に発刊された加藤盛慶著、『東京淀橋誌考』には、
 「渡邊土手際」 新宿驛の東側なる武藏野館、新歌舞伎座、三越支店等附近一帶の地は、舊幕臣渡邊虎之助の下屋敷にして、甲州街道に面し土手ありし故に名づく、維新後は武井男爵家にて買受け住み居たるよし、當時坪當り金五十錢位なりしと、其の後汽車開通の頃より、薪炭を商ふ店など漸次建増したるも、猶ほ一面に桑畑あり、竹藪あり、擂鉢山といへる丘もありて、莚小屋の芝居、相撲など掛り青梅街道側には藪花牡丹園などもありたるよし、古老は物語れり、猶ほ大正五年頃まで小林某の經營にて新宿座と稱する古き小劇場ありて、尾崎行雄等の政談演説會なども開かれたり。」(『東京淀橋誌考』501ページ)
 と、この地域に桑畑や竹藪とともに擂鉢山という丘があったことが書かれています。


「擂鉢山」
出典:国土地理院ウェブサイト(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=741346&isDetail=true)

 画像は、国土地理院ウェブサイトより公開されている、昭和19年(1944)に陸軍により撮影された擂鉢山所在地周辺の空中写真です。写真左側は当時の淀橋浄水場で、中央に見える前方後円形の影が擂鉢山ではないかと思われます。この影は、昭和20年(1945)の写真までは見ることが出来るのですが、昭和22年以降の写真には見られないようなので、戦後には取り崩されてしまったようです。もしもこれが古墳であれば、100メートルに満たない50~80メートルほどの小形の前方後円墳だったのではないかとも考えられます。


「擂鉢山」

 明治期の地形図を確認すると、やはり前方後円形の地形を見ることが出来るのですが、空中写真の前方後円形の影の位置とは異なる場所に描かれています。地形図にミスがあるとは考え難いところですが、空中写真の擂鉢山の位置には地形図にも塚らしき存在は描かれています。
 気になるのは、地形図の擂鉢山の後円部(?)の部分を取り囲むように円形の塚状の地形が見られることです。この地形図だけで判断すると古墳群か?とも考えられるのですが、この円墳群らしき影は、位置がズレているはずの空中写真の擂鉢山の周囲にも同様に見られるようです。
 東京都新宿区教育委員会より昭和51年(1976年)発行の『新宿区町名誌―地名の由来と変遷―』では、この擂鉢山は幕府旗下渡邊氏下屋敷の土塁だったとしているようです。元々あった古墳を土塁に転用したという可能性も考えられると思われますが、このあたりの真相はわかりませんでした。。。


「擂鉢山」

 最後の画像は『東京女子大学五十年史』の66ページに掲載されていた平面図です。
 東京女子大学は、大正7年(1918)に豊多摩郡淀橋町字角筈(つまり空中写真に見える擂鉢山らしき影の東側あたり)で開学しており、6年後の大正13年(1924)に豊多摩郡井荻村(現在地である杉並区善福寺2丁目)に移転しています。従って、この平面図は大正時代のものということになりますが、やはり敷地内の北東隅に前方後円形の築山が描かれています。
 また、興味深いのは敷地の南の隅にもう1箇所円形の築山が描かれていることです。ひょっとすると、擂鉢山はやはり空中写真の位置が正解で、地形図では何らかの手違いで、平面図にある円形の築山の位置に擂鉢山を描いてしまったのではないか?とも考えられますが、これも真相はわかりません。
 新宿副都心の高層ビル群に前方後円墳が存在したと想像するとちょっとわくわくしますが、もし古墳が現代まで残されていて、高層ビルと前方後円墳が並んでいたとしたらもっとわくわくしますが、時すでに遅し!古墳の痕跡はまっったく残されていないようです。


「擂鉢山」

 擂鉢山跡地のすぐ横、現在の新宿エルタワーの北側の植え込みの中には「淀橋浄水場趾の碑」が建てられています。
 淀橋浄水場は、東京にコレラが流行した明治19年に市民が9,800人も死んだことから、それまで使用していた玉川上水などを改良するためにオランダの技師、ファン・ドールンに調査を依頼、水道建設を設計させ、明治25年12月に着工、7年の歳月を経て32年12月に落成式が行われたそうです。玉川上水から引き入れて浄化した水は、中野、渋谷、文京区全域のほか新宿、中央、千代田、港、台東、江東、豊島、北、荒川区などにも給水していたようです。
 現在の、東京都庁、新宿NSビルを始めとした高層ビル群は、この淀橋浄水場の跡地に建てられています。この周辺を歩いていると地面の高さが違っていて、地上を歩いているのか地下を歩いているのかよくわからなくなってしまう場所なのですが、これは浄水場の池を地上の高さまで埋め立てるには予算がかかりすぎることから埋め戻さなかった、つまり現在の高層ビルは池の底に建てられているようなものなのだそうです。
 うーん。高層ビルより前方後円墳が見たかった…。

<参考文献>
羽賀善次郎『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』
新宿区教育委員会『新宿区町名誌 ―地名の由来と変還ー』
東京女子大学『東京女子大学五十年史』


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  1. 2017/10/02(月) 00:15:02|
  2. 新宿区の古墳・塚
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「妙正寺川No.1遺跡」(埴輪片出土地)

「妙正寺川No.1遺跡(新宿区立妙正寺川公園)」

 「妙正寺川No.1遺跡」は武蔵野台地の東側、妙正寺川中流域右岸の小原台面の台地下の低湿地に立地します。『東京都遺跡地図』には、新宿区の遺跡番号35番に登録されている遺跡で、現在は「新宿区立妙正寺川公園」として整備されており、南西側にはUR都市機構による集合住宅が建てられています。
 画像は、新宿区西落合2丁目の新宿区立妙正寺川公園を東から見たところです。


「妙正寺川No.1遺跡(新宿区立妙正寺川公園)」

 画像は、妙正寺川公園内のようすです。この妙正寺川No.1遺跡は、昭和59年(1984)に発掘調査が行われ、わずかに2点ながらも埴輪の破片が出土しています。周溝や埋葬施設等の詳細は不明で、周辺の土砂が流入した可能性も考えられることから古墳の正確な所在地は不明ですが、少なくともこの周辺地域に高塚古墳が存在したことは間違いないようです。

 東京都中野区役所より発行された『中野区史 上巻』には、この遺跡に隣接する片山地区に「片山東南方高塚古墳群」の名称で古墳群が存在したという記述があり、また妙正寺川を挟んだ対岸の哲学堂公園にも高地が認められ、この高地上にも「四ツ塚(四ツ塚古墳群)」と呼ばれる4基の塚が存在したといわれており、やはり古墳の可能性が指摘されています。また南方の「遠藤山遺跡」からは4基の円墳の周溝が発掘調査により検出されており、更なる古墳の存在が想定される地域です。この妙正寺川No.1遺跡内に存在した古墳は、片山東南方高塚古墳群に属する古墳だった可能性を感じますが、すべての古墳が消滅してしまった今、真相を知ることは出来ません。
 

「妙正寺川No.1遺跡(新宿区立妙正寺川公園)」

 公園内には、さまざまなスポーツを楽しむ若者たちの姿が見られ、また池の畔では日光浴をするカメさんの姿が見られます。古墳の痕跡らしき光景はなく、説明板等も特に見当らないようです。


妙正寺川

 画像が、杉並区内にある妙正寺池を水源とする妙正寺川です。中野区北部を蛇行しながら東に流れ、新宿区下落合で主流となる神田川に合流します。画像の左側が妙正寺川No.1遺跡である妙正寺川公園で、対岸である画像右側には哲学堂公園が所在します。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京都中野区役所『中野区史 上巻』
妙正寺川No.1遺跡遺跡調査会『妙正寺川No.1遺跡』


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  1. 2017/09/23(土) 23:44:32|
  2. 新宿区の古墳・塚
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「荒木町遺跡(埴輪片出土地)」

「荒木町遺跡(埴輪片出土地)」

 画像は、新宿区荒木町の「荒木町遺跡」の調査地点周辺を南から見たところです。
 『東京都遺跡地図』には、新宿区の遺跡番号49番に登録されている遺跡です。

 この遺跡は武蔵野台地の東端部にあたり、神田川と目黒川に挟まれた淀橋台上に位置しています。旧江戸城から約3kmほどに位置しており、四谷見附と四谷大木戸を東西に結ぶ四谷大通りに近く、江戸時代にはこの附近は繁華な地域であったと考えられる場所で、かなり早くから開発の進んだ地域です。
 古墳時代の遺物は、わずかに1点ながらも円筒埴輪の胴部の破片が出土しています。周溝や埋葬施設等の詳細は不明で、周辺の土砂が流入した可能性も考えられることから古墳の正確な所在地は不明ですが、北東に200mほどに位置する「三栄町遺跡・新宿区立新宿歴史博物館地点」からも円筒埴輪片が出土していることから、古墳群の存在も考えられているようです。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
宗教法人 解脱会・新宿区荒木町遺跡調査団『荒木町遺跡Ⅱ』


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  1. 2017/09/22(金) 01:14:13|
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