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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「あきる野市内の消滅した塚 その2」

「塩地蔵尊」

 前回に続き、今回も「あきる野市内の消滅した塚 」を書き留めておこうという企画です。前回は正確な所在地がわからなくなっている塚を中心に取り上げましたが、今回は、やはり塚は消滅しているもののおおよその跡地は判明している塚を取り上げておこうと思います。
 画像は、あきる野市伊奈に所在する「塩地蔵尊」です。この場所は千日堂跡であるといわれ、「堂塚」と呼ばれる塚の跡であるといわれています。


念仏供養塔

 画像が、千日堂跡に残されている念仏供養塔です。享保14年(1729)銘の大型の宝篋印塔型で造られたもので、千日供養という千日間の念仏供養を行って満願を記念して建立されてものであるといわれています。どこかに「堂塚」と刻まれているようなのですが、これは見学に訪れて撮影した後に知ったことで確認をしませんでした。中世の塚ではないかと考えられているようですが、詳細はわかりません。


忠魂碑

 敷地内には忠魂碑が立てられており、この土台の部分が塚状に盛り上がっています。果たしてこの塚が「堂塚」の痕跡であるのか、それとも無関係の現代の塚であるのか、こちらも詳細はわかりません。。。


引田の「神送り場」

 画像は、あきる野市引田の「神送り場」と呼ばれる地点です。この場所にもかつて塚が築かれていたといわれています。『秋川市の文化財 八』には、「五日市山田と上引田の境にある三角地に、小石を積み上げて作った塚で、悪病がはやると村内の者はここに集まり、悪病を村外に送り出したのでこの名がある。ここには三角地蔵と呼ばれる地蔵がまつられているが、実は道祖神であるといわれている。」と書かれており、この中で気になるのはやはり「小石を積み上げて作った塚」という記述です。あきる野市内で多く見られる積石塚である可能性はなかったのだろうかと、とても気になる塚ですが、すでに宅地化により塚の痕跡は全く残されていません。現在は「延命地蔵尊」が祀られているようです。


「もみじ塚」

 画像は、あきる野市引田に所在する「もみじ塚」を南西から見たところです。平成元年(1989)に行われた発掘調査により、古墳ではなく近世の塚であることがわかっている現存する塚です。かつて引田の神送り場に立てられていたという寒念仏供養碑は、このもみじ塚に移設されています。


渕上の「神送り場」

 あきる野市内には、渕上にも「神送り場」であったといわれる塚の跡地があります。画像の道路右側の三角地がかつての塚の所在地とされています。
 秋川市教育委員会より発行された『秋川市地名考』にはこの塚について、「神送り場(カミオクリバ)渕上二五二番地の前。何の塚か不明であるが、ここは塚の跡といわれている。ここでは「塞の神」をやらずに、観音寺にお札やだるまを返すのに、ここへ集めたのであった。またここに榛名講のお札を飾ったという。今桑の大木が枯れて残ってたっている。榛名講は、群馬県榛名神社信仰の講である。榛名神社は農耕の神なので毎年農作祈願に代参した。この代参にあたった者は、雹などが降るといけないというので、鶏卵の食べてはいけないなどといわれたという。」と書かれています。
 塚の跡地とされる三角地は現在も残されているようですが、塚の痕跡は残念ながら何も残されていないようです。。。


「渕上の石積井戸」

 古墳探訪のために都内各地を訪れる中で、なかなか興味深い史跡に出会うこともあります。古墳とは全く関係がのない史跡ですが、かつては武蔵野台地の各地に見られたといわれるのが「まいまいず井戸」です。すり鉢状に掘った穴の底に井戸を掘るという特殊な構造の井戸で、あきる野市内では渕上の開戸センターの敷地内に残されています。
 あきる野市教育委員会により立てられた説明板には次のように書かれていました。

あきる野市指定史跡
 渕上の石積井戸
           所 在 地 あきる野市渕上三三〇番地
           所 有 者 あきる野市
           指定年月日 平成四年七月九日

 地面をすり鉢状に掘りくぼめ、らせん状の道を設けるなど、堅
井戸の普及する以前の井戸の特徴を良く示しています。
 平成四年の発掘調査によって、東西五•五m、南北七•五m、深
さ三•二mの規模であることや、壁全体に石積が施されていること
などがわかりました。また、北と南に階段状の入り口が設けられ、
幅六十cm程の道が左回りで平坦な底まで続いています。底は水を
とおしにくい固い砂?層(五日市砂?層)まで掘り込まれていて、
きれいな地下水が周囲の石積の間から湧き出しています。
 構築年代は中世に遡りうる可能性があり、また石積をともなう
点で大変稀少で保存状態も良く、地域における水と生活の歴史を
知る上で貴重です。
(本井戸の脇に設けられている井戸は、昭和二十年代までつるべ
井戸として使用されていたものを復元したものです。)
                   あきる野市教育委員会


「太刀塚」

 あきる野市油平には、「太刀塚」と呼ばれる塚が所在したといわれています。画像の道路左側あたりが太刀塚の跡地といわれている場所で、宅地化が進んだこの周辺に塚の痕跡は何も残されていないようですが、遺物の出土の伝承が残されているようです。この地は「福徳寺」の旧地ともいわれているようですが、この福徳寺と太刀塚について『秋川市史』には次のように書かれています。

 福徳寺 油平二四六番地
 山号は延命山という。本尊は十一面観世音菩薩である。
 当寺はもと福泉寺と言って、油平20~24番地付近にあった。草創は延文年間(1356~60)といわれているが、開基は不詳である。往昔、寺のあった付近は太刀塚とよばれていて、戦前には高さ2メートル、周囲約10メートルの円い塚があったという。
 この塚には1つの伝説がある。延文の頃(14世紀半ばごろ)足利氏の臣某が、この地で戦って敗けて、戦死者や武器などを埋めた跡だといわれている。明治8年(1875)11月に、この付近から矢の根数十本が掘り出されたという。
 開山は普門寺7世の徹堂薫禅師である。禅師の入寂は文禄元年(1592)5月9日である。草創を延文年間とすると、禅師の示寂した文禄とは230年近いへだたりがある。おそらく、延文に草創されたものが衰微していたものであろうか。『建長寺史 末寺編』によれば永正2年(1505)に太刀塚の所から、油平の現在地に移したという。(後略)』(『秋川市史』1604ページ)



「福徳寺」

 画像は、あきる野市油平に所在する「福徳寺」の山門を西から見たところです。この福徳寺はかつては福泉寺と称しており、明治44年に牛沼にあった徳重院と合寺したのち、福徳寺と改称したそうです。この山門は徳重院所在のものを昭和5年にされたもので、あきる野市の有形文化財(建築物)として指定されています。


「ばいせん屋敷跡と石の塚」

 画像は、あきる野市下代継‎の「ばいせん屋敷跡」とされる周辺を北西から見たところです。この地には石の塚が存在したといわれており、積石塚が多く存在する秋留の市内において気になる存在です。このばいせん屋敷跡について、昭和58年に秋川市教育委員会より発行された『秋川市地名考』には「ばいせん屋敷跡 稲荷神社前は小公園になっている。その前の田んぼの畦道を東南に約百五十メートルほど進んだ付近の田を、「ばいせん」とよんでいる。今は屋敷跡らしいものは、何も残っていない。明治の中ごろまで小屋があって、変わった俳人がひとり住んでいたという。その跡には石の塚も最近まであったが、いまはそれもなくなってしまった。」と書かれています。
 ここに小屋を建てて独りで暮らすというのはかなり孤独な事だと思うのですが、変わった俳人とはいったいどんな人だったのでしょうか。
 ここから北東に300mほどの地点には、3基の積石塚からなる「牛沼古墳群」が所在します。この場所に残されていたという「石の塚」が古墳だった可能性も十分に感じますが、残念ながら現在は屋敷跡、石の塚ともに何も痕跡は残されていないようです。


 あきる野市内に存在したといわれる塚において、実際に現地を訪れてみたのはこれですべてです。いずれも学術的な調査は行われないまま消滅しており、その性格はわからないものばかりですが、中には古代に築造された古墳であった塚も存在したかもしれません。あきる野市の歴史は今後の調査によりさらに解明されて行くものと思われます。その進展を楽しみに待ちたいところです。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会社会教育科『秋川市の文化財 八』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』
現地説明版


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  1. 2017/03/08(水) 23:03:49|
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「あきる野市内の消滅した塚 その1」

 あきる野市内では秋川と平井川の下流域を中心に多くの遺跡が発掘されており、多くの古墳の存在が確認されています。平井川流域では、日の出町の「道場古墳群」から「瀬戸岡古墳群」、「御堂上古墳群」、「草花古墳群」、「森山古墳群」と、未確認のものも含めてかなり多くの古墳の存在が想定されているようですが、秋川流域では、円墳3基で形成される「舘谷古墳群」、同じく3基で形成される「牛沼古墳群(西龍ヶ崎古墳群?)」のほかは「山田古墳」、引田の「№106遺跡」等わずかに点在する小円墳が確認されているのみであるようです。ただし、あきる野市の郷土史を調べてみると、中には古墳であった可能性も考えられる塚の記録が多く残されているようです。これらの塚のほとんどは残念ながら消滅しており、正確な所在地がわからなくなっているものも少なくないようですが、今回はこの消滅した塚の探訪記録を書き留めておこうと思います。

「八幡塚」

 画像は、あきる野市小川に所在する「林泉寺」を南から見たところです。この林泉寺持の土地に所在したといわれる塚が「八幡塚」です。塚上に八幡様が祀られていたことからこう呼ばれており、かつての地名の由来にもなっていたようです。林泉寺裏の「八幡堀」や「八幡道」などは、現在も残されています。また、この周辺地域では、ここで雹祭りをすると雹が降らないといわれており、また塚をいじると祟りがあるという言い伝えも存在したようなのですが、その後は開発により消滅してしまったようです。
 周辺を散策しましたが、残念ながら塚の痕跡は見つかりませんでした。。。


林泉寺周辺の石造物

 林泉寺周辺には石造物が多く残されているようです。1枚目の画像は、林泉寺横の駐車場の西側に並んでいた石造物ですが、現在は移設されて存在しません。こうした石造物は、なるべく元あった場所に残されて欲しいと思っていますが、都市化が進むと神社や郷土資料館などにまとめて移されてしまうことが多いようで、古いものと新しいものの共存は難しいですね。


林泉寺周辺の石造物

 同じく、林泉寺周辺の石造物。こちらは今も健在に残されています。


「八雲神社」

 画像は、あきる野市野辺の「八雲神社」です。長禄年間(1457~60)創立と伝わる神社で、御祭神は素盞嗚尊。あきる野市HPの「あきる野市神社一覧」によると、祇園牛頭天王を勧請して村内の新開院が別当となり、明治維新の折、八雲神社と改称されているようです。秋川市教育委員会社会教育科より発行された『秋川市の文化財 八』には、この八雲神社周辺に存在した塚について「谷頭 野辺の神社のうしろをいう。ここに塚があり、崩したらやじりが出てきたという。」と書かれています。
 秋川流域左岸に存在したと考えられるこの塚から「やじりが出てきた」という記述からして、古墳であった可能性を想定したくなる塚ですが、塚は残念ながら開発により消滅しており、所在地はわからなくなっています。周辺を散策してみましたが、やはり塚の痕跡を見つけることはできません。。。


茅葺屋根の民家

 近隣で見かけた茅葺屋根の民家です。民家園のような古民家の保存を目的に移築された以外で、街を歩いていて茅葺屋根の古民家を見かけたのはかなり久しぶりで、しかも東京都内ということもあってちょっと感動しました。あきる野市内をぶらぶら歩いていると、かなり多くの、豪農や名主と考えられるお屋敷や古民家、土蔵などを見ることができます。むしろ古墳よりもこちらの方が見応えがあるかもしれません。


「おえい塚」

 「おえい塚」は、あきる野市小川に所在したとされる塚です。画像の左奥あたりがおえい塚の跡地であると思われます。秋川市教育委員会より発刊された『秋川市地名考』にはこの塚について、「おえい塚 前田小学校の東側に三角の田があって、その真中に塚がある。言い伝えによると、「おえい」という女性が、田んぼの水争いにまきこまれ。夜、不意打にあって殺されたという。いつのことか不明であるが、その「おえい」とよばれた女性を葬ったのが、この「おえい塚」だという。」と書かれています。この記述からして、『秋川市地名考』が発行された昭和58年(1983)当時にはまだ塚は残されていたようですが、現在は宅地化が進み、塚の痕跡を見つけることは出来ませんでした。
 この伝説が史実であるようならば、塚は古墳ではなく供養塚の類いではないかと考えられますが、どんな性格の塚だったのでしょうか。。。


「前田耕地遺跡」

 おえい塚の北側、あきる野市野辺の「前田公園」として保存されているのが「前田耕地遺跡」です。この遺跡は、多摩川支流である秋川と平井川に挟まれた段丘上に位置しており、昭和51年(1976)から同59年(1984)にかけて発掘調査が行われ、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡が検出されています。多摩地域を代表する縄文時代の遺跡であるようです。
 画像は、北西130mほどの地点から移築、復元された縄文時代の敷石住居跡で、公園内には縄文時代と弥生時代の住居跡が保存されています。


「前田耕地遺跡」

 画像は同じく前田公園内に復元された、弥生時代の竪穴住居跡です。この直下の地中に、同じ形状の住居跡がそのまま残されているようです。古墳巡りをするようになって、こうした史跡公園の存在が気になるようになったのですが、以前であれば興味がなかった、というより気がつかなかったかもしれません。。。


「蟻塚」

 「蟻塚」は、あきる野市野辺に所在したとされる塚です。『秋川市の文化財 八』にはこの蟻塚について、「野辺の秋川沿いのハケ上にあった。昔、ここに行き倒れ人があり、死がいに蟻が一ぱいたかっていたので、村の人が可哀想がり、塚を築いて霊をともらってやった。誰言うとなく、この塚を蟻塚と呼ぶようになったという。」と書かれています。「秋川沿いのハケ上」という立地的に古墳の可能性を感じさせるところなのですが、正確な所在地については全くわからなくなっているようです。画像は、野辺の秋川沿いのハケを南から見たところで、この周辺の段丘上に蟻塚は存在したものと思われますが、痕跡を見ることは出来ません。。。

 他に、二宮の東方の多摩川よりには「馬塚」という塚が存在したといわれています。馬の墓場ともいわれたこの馬塚は小石を積み上げた塚であったといわれており、これはあきる野市内に多く見られる積石塚を連想させる塚ですが、所在地については皆目見当がつかず、従って画像も無しというていたらくです。。。

 以下、次回の「あきる野市内の消滅した塚 その2」へ続く。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会社会教育科『秋川市の文化財 八』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
秋川市教育委員会『秋川市地名考』


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  1. 2017/03/06(月) 23:53:52|
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「庚申塚(猿田彦碑)」

「庚申塚(猿田彦碑)」

 画像は、あきる野市瀬戸岡に所在する「猿田彦碑」を南から見たところです。五差路の北角の三角地にあたるこの場所は元は庚申塚であったといわれており、この地域では珍しいとされる猿田彦の石神が建てられています。地元の人の話では、この石碑は明治初年に建立されたもので、昭和40年頃までは「天保四年癸巳十一月 武蔵国多摩郡瀬戸岡村建立」と刻まれた庚申塔が塚の脇に倒されていたそうです。猿田彦命とは『古事記』によると、天孫降臨の際に道案内として迎えに出た神様で、『日本書紀』によると、鼻の長さ七咫、身長七尺、口は輝き目は鏡のように大きく真っ赤であったといわれ、道祖神ともされたそうです。
 50基ほどが密集する瀬戸岡古墳群から南東にわずか二百~三百メートルほどの、平井川右岸に所在するこの庚申塚が、古墳を流用したものである可能性はないものだろうかと考えて訪れてみました。学術的な調査は行われていないようですが、この周辺の古墳の多くが積石塚であることを考えるとやはり古墳ではなく塚だったのではないかという印象ですが、真相はわかりません。。。

<参考文献>
秋川市教育委員会『秋川市ふるさとの道 ―秋川市ガイドブック―』


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  1. 2017/02/28(火) 08:37:30|
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「慈勝寺前古墳」

「慈勝寺前古墳」

 「慈勝寺」は、あきる野市草花1811番地、草花丘陵の東端部に位置しています。この慈勝寺の敷地内にもかつて古墳が存在したといわれています。『東京都遺蹟地図』にはあきる野市の遺蹟番号60番に登録されている古墳です。

 このお寺の東側には、かつて「弘法山」がありました。径約200メートル、慈勝寺との比高差約20メートルほどのこの弘法山の南側が、かつての古墳の所在です。この古墳の発見から発掘までのいきさつについて、『多摩のあゆみ 第20号』には故塩野半十郎氏により次のように書かれています。


 弘法山(権現堂山)は、瑞穂町長岡新田の原富蔵(筆者の叔父)が、四国八十八ヶ所に做い奥多摩八十八ヶ所の霊場の三十七番を安置してから人々が弘法山と呼ぶ様になったものであるが、戦後、都知事の安井さんの主催で多西村の有志が植樹祭を行った事もある。
 その南面の麓を慈勝寺で開発する時、偶然鉄刀が発見された。私が、八王子の船田遺跡の発掘が終って帰宅したところその事を塩野忠治さんから聞いて、翌朝行って見ると、既に塩野重雄さんが掘っていた。
 「これは古墳だから」と、発掘を中止して貰い、岸野権十郎さんを頼んで復元した。(中略)山裾から北に向って羨道を掘り、その奥に玄室を造ったと思われ、中央に多摩川石を積み上げた石槨があり、その中に少量の骨片と直刀、刀子及び須恵器の破片が発見された。周りに長さ十メートル位の周溝と考えられる跡が残っていた。平安期の古墳と考えられている。(後略)(『多摩のあゆみ 第20号』51〜52ページ)



「慈勝寺前古墳」

 画像が、「慈勝寺前古墳」の跡地を南から見たところです。弘法山の南側はざっくりと切り取られて現在は墓地となっていて、古墳の痕跡は全く残されていないようです。

<参考文献>
塩野半十郎「秋川市の古墳覚書き」『多摩のあゆみ 第20号』
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』

  1. 2015/04/06(月) 01:02:37|
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「原小宮古墳群 5号墳」

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 平井川の崖上に沿う秋留台地の北縁に、5基の古墳で形成される古墳群であるとされていたのが「原小宮古墳群」です。昭和58年(1983)に発行された『秋川市史』にはこの5基の古墳についての詳しい記述がみられ、また、平成4年(1992)に多摩地区所在古墳確認調査により行われた多摩地区の古墳の分布調査、確認調査においてもこの5基の古墳は確認されています。
 『多摩地区所在古墳確認調査報告書』にはこの5基の古墳について次のように書かれていました。


原小宮古墳群 1号墳
墳 丘:梅林の中にあり、北側が若干削られている様だが、残存状況は概ね良好。に残存。墳丘の
    土には3~5cm大の小礫が混ざっている。径約9.7m、高さ約1.2m。
主体部:内容不明

原小宮古墳群 2号墳
墳 丘:円墳。南側が耕作によって若干削られているが、残存状況は概ね良好。墳丘の土には10~
    15cm大の礫が混ざっている。径約6.1m、高さ約1.5m。
主体部:内容不明

原小宮古墳群 3号墳
墳 丘:円墳。栗林の中にあり残存状況は概ね良好である。墳丘の土には3~5cm大の礫が混ざって
    いるが、土もあまり流失せずに良く残っている。径約8m、高さ約1.6m。
主体部:内容不明

原小宮古墳群 4号墳
墳 丘:畑の畦道を作った際に削られしまったようで、小礫が混じる僅かな高まりが確認出来るだけ
    で明確な墳丘は残存していない。
主体部:内容不明

原小宮古墳群 5号墳
墳 丘:消滅
主体部:現在は駐車場になっているが、道路の脇に長さ約1m、幅約50cmの石が数個寄せ集められている。
備 考:昭和12年頃に地元青年団によって掘られたといわれている。


 このように、古墳であると考えられた5基のうち4基は地表面にマウンドが存在するという状況で、平成6年(1994)より区画整理事業のための試掘調査が行われます。この調査の結果は次のようなものでした。


原小宮古墳群 1号墳
中世の盛土であることが判明した。
原小宮古墳群 2号墳
須恵器等が数多く出土したものの古墳を示す遺構はなく、時期・性格が不明な遺構であった。
原小宮古墳群 3号墳
3号墳は約1mの高さをもっていたが、盛土の最下層まで現代の缶や瓶のかけらなどを数多く含んでいたため、遺構ではないことが判明した。
原小宮古墳群 4号墳
遺物は皆無で、径5〜10m程の自然礫を含む締まりの弱い土が存在するだけであり、遺構ではなかった。
原小宮古墳群 5号墳
調査を行った範囲の中から古墳の存在を示す遺構や遺物は発見されず、5号墳の位置を含めてその詳細を明かにするまでには至らなかった。


 古墳時代終末期の築造と考えられていた「原小宮古墳群」ですが、マウンドが存在した4基はすべて古墳ではない事が判明しています。驚きの結果ですが、こんなこともあるのですね。

 さて、唯一位置が不明とされている5号墳ですが、『東京都遺蹟地図』では、画像の周辺が跡地として登録されています。『秋川市史』の364ページには「石神の東京電力秋貿変電所南には、遺物の散布状態が密である。さらにこの地点には、昭和12年ごろ、原小宮の青年の人たちが発掘した、古墳の残形があり、大きな石が散在し、祠などが立っていたが、現在は駐車場になっている。しかし往時はこの大きな石の下は、くぐり抜けることができたという。」と、少なくとも1基は古墳が存在したことが書かれています。
 この地点にはかつて石塔や礫が数点存在したようですが既に移動され、マウンドも存在せず、平坦な土地となっているようです。


「原小宮古墳群 5号墳」

 近隣からは、縄文時代の集石土坑や弥生時代終末から古墳時代初頭の住居跡、周溝墓、古墳時代後期の住居跡等、多くの遺跡や遺物が発見され、地名をとって「石神遺跡」と呼ばれています。この遺蹟は「石神公園」として整備、保存されており、公園内にはあきる野市教育委員会による説明板が設置されています。
 画像に見える公園内のマウンドは古墳ではなく、遺跡を保存するための盛土であるようです。


「原小宮古墳群 5号墳」

 画像は、説明板に掲載されている円形周溝墓の写真です。かなり大きなものであることがわかりますね。

<参考文献>
秋川市史編纂委員会『秋川市史』
多摩地区所在古墳確認調査団『多摩地区所在古墳確認調査報告書』
原小宮地区遺跡調査会『原小宮地区遺跡群』
現地説明版

  1. 2015/04/05(日) 01:19:25|
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