
画像は、日野市日野台3丁目にある「首塚」を北西から見たところです。
この塚は、以前「七ツ塚古墳群」に向う途中で見かけて写真に収めていたものの詳細はわからず、東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」に参加した際に、「首塚」という名称を初めて知りました。
この周辺はかつては日野原(ひのっぱら)と呼ばれており、昭和10年頃までは広い原だったそうです。『日野の歴史と文化 第17号』にはこの地の言い伝えとして、次のように書かれていました。
昔一人の遊行僧が、旅から旅へ説教をしながら来たところ、日野原があまりにも荒れ果てていたので、これはこの地を治めている者の力が足りないのだといいふらした。これを聞いた役人が怒ってその坊さんの首を一刀のもとに切り落としてしまった。ところがその坊さんは首を切られてもなお代官所へ向って歩き出したがまもなく倒れて死んだという。役人や村人は坊さんのたたりをおそれて坊さんの遺骸を埋めて塚を作り、首塚としてねんごろに葬った。それが首塚であるという。(日野史談会『日野の歴史と文化 第17号』2ページ)

この周辺の工場建設の際に敷地のあちこちから人間の頭骨が出てきたそうで、その後人夫たちにも怪我人や病人が出てきたので、それらの首を集めて埋葬して「首塚稲荷」として祀ったそうです。一説には、北條氏照落城の頃の古戦場であったのではないかとも考えられているそうです。今でもこの地域の工事関係者はこの塚に手をつけたがらないと聞きましたが、祟りの言い伝えは現代も生き残っているのかもしれませんね。
元々は塚の上に祠が建てられていたかと思いますが、先の大地震で倒壊してしまったのか、祠は塚から下ろされて置かれています。。。
<参考文献>
日野史談会『日野の歴史と文化 第17号』
- 2013/12/12(木) 01:51:32|
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画像は、日野市栄町にある「加賀塚(竹間加賀入道の墓)」を南西から見たところです。日野市の遺跡番号44番の塚です。
敷地内に設置された日野市教育委員会による説明板には次のように書かれていました。
市指定史跡
加賀塚(竹間加賀入道の墓)
竹間加賀入道は、小田原北条氏に仕え、日野本宿に住み、日野に知
行地を有した武士である。また鉢形城(埼玉県)の守備にあたったと
も伝えられ、その名は、佐藤家の古文書(北条氏照印判状)にもみ
られる。
豊臣秀吉が関東に兵を進め、北条氏と交戦状態に入った天正18年
(1590)2月8日鉢形城から帰り、この地で切腹したという。八王子
城が豊臣勢の攻撃で落城する4ヶ月前のことである。
昭和60年3月 日野市教育委員会
東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」にて見学しましたが、加賀塚は「加賀塚公園」として整備されて公園内に保存されているので、いつでも見学することが出来ます。
塚の規模は広さ3m四方、高さ50cmとされていますが、公園として整地されたためか平坦に見えます。塚には榎が自生しており、昭和15 年(1940 年)に加賀入道の子孫により立てられた供養墓碑と、古くからある高さ50cmほどの自然石の2基があります。昭和36年10月1日に日野市指定史跡に指定されています。
<参考文献>
日野市教育委員会『日野市の文化財 第1集』
現地説明版
- 2013/12/11(水) 01:46:10|
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画像は、日野市さくら町にある「富士塚」を南東から見たところです。塚はコニカミノルタ東京サイトの構内に整備されて残されています。企業の敷地内にあるため無断で立ち入る事は出来ませんが、年に一度、東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」で一般に公開されており、見学することが出来ます。
「富士塚」は、永禄10年(1567)の絵図『高幡高麗一族屋敷・下地等絵図』に「ひのさかの臺より富士つかのきわ迄前代あらいかたニ候」と記述されており、少なくとも16世紀中頃には構築されていたものと考えられています。ということは、少なくとも富士講徒によって築造された塚ではないということになるわけですが、一体誰が何の目的でこの塚を築造したのでしょうか。「富士塚」の名称が付きながら、近世の富士信仰の特徴であるクロボク(溶岩)や参道が存在しないのも特徴としてあげられるそうです。

平成20年には測量調査がされており、現状規模は25.5m×15.5m、高さ4mを測り、平面形は円形を基調としています。塚の西側の部分は建物により一部切られており、画像に見られるように断面を観察することが出来ますが、当方800mの地点に所在する「上人塚」と同じように赤褐色土粒を多く含む黒色土が積み上げられて叩き締められて構築されているため、「上人塚」との関係が注目されています。
この、黒色土を選んで構築されているところが古墳との違いといえる特徴であるようで、『東京の遺跡 NO.93』には類例として、青梅市の「富士塚」、立川市の「富士塚」、八王子市の「無名塚」、府中市の「横海道北1号塚」、国分寺市の「尼寺北方の塚」、町田市の「木曽の富士塚」、西東京市の「南入経塚」、世田谷区の「砧大塚」、北区の「平塚」、大田区の「御塚(新田義興塚)」などがあげられていました。

日野市内にはこの「富士塚」の他にも「上人塚」、「まつり塚」など、行政だけでなく企業の理解と努力によって多くの塚が残されているようです。古墳や塚のほとんどが崩されてしまった東京都内において貴重な地域であると思います。。。
<参考文献>
東京考古談話会『東京の遺跡 NO.93 日野台地の上人塚と富士塚〜ランドマークとしての黒塚〜』
- 2013/12/09(月) 02:57:17|
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画像は、日野市富士町1丁目にある「まつり塚」を東から見たところです。塚は昭和36年(1961)に日野市の有形民俗文化財に指定されており、富士電機システムズ株式会社東京工場の構内に整備されて残されています。企業の敷地内にあるため無断で立ち入る事は出来ませんが、年に一度、東京文化財ウィークに合わせて行われる「塚つかウォーク」で一般に公開されており、見学することが出来ます。
敷地内には日野市教育委員会による説明板が立てられており、次のように書かれていました。
日野市指定有形民俗文化財
まつり塚
ここは古来、まつり塚と呼ばれ、旧平山村と旧豊田
村の村境にあたる。 道路の両側には松ノ木が植えら
れ、松の根元には土壇が築かれ、数基の石仏が安置さ
れていた。
古くからしばしば流行した疫病は村人に恐怖を与え
たが、なにも防疫手段を持たなかった人々は、それを
防ぐために、村をあげて祈るよりほかに頼るものはな
かった。
このまつり塚においても、その風習は明治のころま
で残っていたといわれている。いつしか土壇もとり払
われ、石仏も散逸し最後に残った黒松(幹囲三、四五
メートル)も昭和六十一年三月二十四日の大雪のため
倒れ枯死した。
平成元年(一九八九年)に二代目祀り松が元の黒松の
横に植えられ、周囲を石で囲み、整備が行われた。
昭和三十六年(一九六一)十月一日 指定
日野市教育委員会
このまつり塚がある台地から一段下がった台地上には「平山古墳群」や「西平山古墳群」などの古墳群が存在しますが、まつり塚と同じ台地上には古墳は1基も存在しないのだそうです。周辺には、多くがすでに消滅してしまった「境塚」のほか「上人塚」、「富士塚」、「首塚」といった塚が残されています。
<参考文献>
日野市教育委員会『日野市の文化財 第一集(指定文化財)』
現地説明版
- 2013/12/08(日) 02:31:44|
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画像は、日野市神明にある「谷ノ上(やのうえ)横穴墓群」を南から見たところです。日野市の遺跡番号10番の古墳です。
この「谷ノ上横穴墓群」は日野台地上の「神明上遺跡」の東側の傾斜地にあり、昭和47年に4基の横穴墓が調査されています。
『日野市埋蔵文化財発掘調査輯報 Ⅱ 1986』には下記のように書かれています。
第1号墓は墓前域に石積み施設を有し、横穴内部の平面形は逆台形を呈する。玄室と羨道は界石によって区別され、アーチ型の天井を有する。副葬品は刀子4点、鉄鏃11点である。第2号墓は横穴内部が全長210m程を測る小型のもので、横穴内部の平面形は逆台形を呈し、界石はなく玄室と羨道の区別はできない。アーチ型の天井を有する。副葬品は出土していない。第3号墓も第2号墓同様小型の玄室を有する。横穴内部の平面形は胴張りの不整楕円形を呈するもので、玄室は羨道から一段高くなっており明確に区別されている。ドーム型の天井を有する。副葬品は出土していない。第4号墓は横穴内部の平面形が逆台形を呈し、玄室と羨道は界石によって区別されている。天井はアーチ型を有する。副葬品は出土していない。第2~第4号墓は墓前域が工事により掘削されており、石積み施設の有無は不明である。
(『日野市埋蔵文化財発掘調査輯報 Ⅱ 1986』26ページ)



すぐ南側を走っている国道20号(日野バイパス)からでもはっきりと認識できる大きな看板が立てられていて、石積みによって埋め戻された横穴の位置がわかるようになっています。3基が保存されているようです。歩道からゆっくりと見学できます。

この「谷ノ上横穴墓群」の周辺には画像のような穴がぽっかりと開いています。予想外の開口する横穴墓か!と喜んだのもつかの間、お向かいに住むおばあさんとの立ち話によると戦争中に作られた防空壕なのだそうです。
こんな発見も散策の楽しみのひとつでもあります。。。
<参考文献>
日野市遺跡調査会・日野市教育委員会『日野市埋蔵文化財発掘調査輯報 Ⅱ 1986』
- 2013/03/15(金) 00:40:28|
- 日野市/その他の古墳・塚
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