
「殿山古墳群 5号墳」は世田谷区大蔵6丁目に所在する古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-5番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳は、丘陵の南傾斜肩部に位置しています。周辺は開発が進み、宅地化されているものの、古墳の周囲には古木が繁る山林が残されています。同じ台地上の縁辺には北西に6号墳が、東には4号墳が所在したとされていますが、この2基については残念ながら墳丘は残されていません。残存する5号墳は、画像の長い石段の奥に所在します。

画像が、「殿山古墳群 5号墳」を南西から見たところです。石段を登りきったところに鳥居が立てられており、墳丘と思われる上には屋敷稲荷の祠が祀られています。素人目に見たところでは、墳丘の中央から西側にかけてざっくりと抉るように削られており、祠は墳丘西側の裾のあたりに建てられているようです。『東京都遺跡地図』には横穴式石室の存在を記していますが、特に露出する石室の有無は確認出来ませんでした。

角度を変えて見ると、円形の古墳の形状がまだ残されていることがわかります。『東京都遺跡地図』には径20mの円墳と記載されています。
土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。また、自動車屋の「変なおじさん」さまには土地の所有者を紹介していただきました。ありがとうございました!
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/17(火) 00:12:14|
- 世田谷区/殿山古墳群
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この「殿山古墳群」は、昭和41年(1966)に行われた、日本道路公団の東名高速道路建設に伴う分布調査により8基の古墳が確認されており、「1号墳」と「2号墳」の2基の古墳の発掘調査が行われています。「殿山古墳群 6号墳」はこの調査当時には残存しており、個人の屋敷内に築山として存在していたようです。雑竹林の中にあり、墳丘はあまり明瞭ではなかったようですが、墳頂部には松の独立樹があったといわれています。
画像が世田谷区大蔵6丁目、6号墳の推定地を東から見たところです。台地縁辺の、いかにも古墳が存在しそうな立地条件の箇所であり、同じ台地縁辺に5号墳、4号墳も並ぶように存在しています。。発掘調査の予定もあったようですが、結局行われないまま東名高速道路建設により消滅しています。
この地点は東京外かく環状道路と東名高速道路が接続する東名ジャンクションの用地となっているので、今後景観も大きく変わってくるものと思われます。周溝の一部でも検出される可能性はあるように思うのですが、発掘調査等はおこなわれているのでしょうか。。。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/16(月) 00:22:17|
- 世田谷区/殿山古墳群
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画像は、世田谷区大蔵6丁目に所在したとされる「殿山古墳群 7号墳」の推定地を北西から見たところです。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-7番の古墳(円墳)として登録されています。
この古墳からはかつて直刀が出土しており、古墳の存在は間違いないようですが、殿山古墳群の調査が行われた昭和41年(1966)にはすでに開墾により湮滅しています。第六天の祠の東方に所在したとされており、画像の畑地のあたりが推定地であると思われますが確証はありません。特に古墳の痕跡は残されていないようです。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/14(土) 23:19:12|
- 世田谷区/殿山古墳群
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画像は、世田谷区大蔵6丁目にある「殿山古墳群 8号墳(大将塚)」を西から見たところです。世田谷区の遺跡番号39-8番の古墳です。
「殿山古墳群」については、昭和37年に発行された『新修世田谷区史』の「第二編 原始・古代 第五章 古墳時代」の項に「大蔵殿山古墳群」の名称で取り上げられており、「殿山古墳群には小円墳群であったらしいがほとんど削平されてしまった」とのみ書かれており、各古墳の詳しい記述は見られません。このように、完全に湮滅したように考えられていた殿山古墳群ですが、昭和41年(1966)に行われた、日本道路公団の東名高速道路建設に伴う分布調査により8基の古墳が確認されており、2基の古墳の発掘調査が行われています。
ただし、この8号墳については、同書の「文化遺産 第五章 伝説」の項に「天明年間に、この地の清水惣右衛門という農民が義賢の塚を発掘したところ、石壁の中に古刀や砂金の類が発見されたが、祟を恐れて古刀、白骨などは朽損のまま埋め、古瀬戸の壷は芦原英俊一に譲ったという。」と書かれており、また昭和50年(1975)に発行された『世田谷区史料 第8集 考古編』にも「平安時代末武蔵国大倉の館で討死した源頼賢の墓とされている。しかし天明年間に農民がこの塚を発掘した際に石壁の中に、石刀、古瀬戸壷、砂金、白骨が発見されたという。古墳の可能性もあろう。」と書かれており、この言い伝えが大将塚が古墳ではないかと考えられる理由のひとつになっているようです。『東京都遺跡地図』ではこの古墳は円墳であるとされています。
古墳は周囲を道路と宅地で削られているものの、個人の邸宅内で大切に保存されています。地元の人には「大将塚」と呼ばれているそうです。

墳頂部には「源義賢朝臣墳」の石碑が立てられています。
当日は、土地の所有者に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
東京都世田谷区『新修 世田谷区史 上巻』
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
多摩地域史研究会『多摩川流域の古墳』
- 2015/02/13(金) 02:42:38|
- 世田谷区/殿山古墳群
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さて、ここまで狛江市内の古墳を数多く紹介してきましたが、狛江古墳群に隣接する「喜多見古墳群」や「殿山古墳群」、「砧中学校古墳群」といった世田谷区内の古墳も、あらためて整理して紹介しようと思います。
「殿山古墳群9号墳」は、世田谷区大蔵6丁目にある井山ゴルフ練習場の敷地内北側に残されている古墳です。『東京都遺跡地図』には世田谷区の遺跡番号39-9番の古墳として登録されています。
画像は9号墳を北西から見たところです。東京都教育委員会より昭和60年(1985)に発行された『都心部の遺跡』にはこの古墳について「古墳の基部のみ残存。基部の直径は約10m。圭頭大刀(東京国立博物館蔵)は昭和2年に耕作中発見されたもの。当古墳は昭和57年に削平された。」との記述があります。また、土地の所有者にお聞きしたところでは、調査の際に石室等の埋葬施設は検出されなかったとのことなのですが、同書には主体部について「横穴式石室?」と、石室の存在の可能性についてふれています。実際に見学させていただいたときには、特に石材が露出しているようなことはなかったように思いますが、このあたりの詳細は不明です。

画像は9号墳を東から見たところです。都心部の遺跡には「削平された」と書かれていますが、古墳らしい形状は残されているように思います。この古墳は、恐らくすでに消滅して見ることはできないのではないかと思っていましたので、存在を確認した時にはちょっと感動しました。笑。

画像は墳頂部のようすです。祠が祀られています。
当日は、土地の所有者の方に声をかけて見学させていただきました。ありがとうございました。
<参考文献>
世田谷区史編さん室『世田谷区史料 第8集 考古編』
東京都教育委員会『都心部の遺跡』
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
- 2015/02/11(水) 09:29:39|
- 世田谷区/殿山古墳群
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