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古墳なう

「大都市、東京の失われた古墳を探せ!」をテーマに、 ご〜ご〜ひでりんが実際に現地に足を運んで確認した古墳や塚の探訪記録。

「練馬区内の庚申塚」

 さて、前回の一里塚に引き続き、今回は練馬区内に存在したといわれる庚申塚の跡地を巡ってみようと思います。以前紹介した「小関庚申塚」には塚の痕跡が残されていましたが、「庚申塚」の名称で呼ばれながらも、すでに塚の存在しない庚申塚を集めてみました。

石神井台5丁目23番地の庚申塚

 まずは、石神井台5丁目23番地の、旧早稲田通り沿いにある庚申塚です。この場所は交差点名にそのまま「庚申塚」の名称がつけられており、交差点の北西の角地に建てられた小さな覆屋に4基の石造物が並んでいます。


石神井台5丁目23番地の庚申塚

 庚申塔は板状駒型の青面金剛像で、向かって左側に「元禄五壬申天十一月十五日」と刻まれていることから、元禄5年(1692)に立てられた庚申塔であることがわかります。

 旧早稲田通りは杉並区から練馬区に入り、禅定院門前の「豊島橋」交差点で西に向きを変え、南大泉を経て保谷(現在の西東京市)から所沢市へと通じており、かつては「所沢道」と呼ばれていました。『新編武蔵風土記稿』ではこの道は単に「所沢ヘノ道」と記しているしているようですが、『石神井村誌』には「所沢道」と記されており、大正時代には所沢道と呼ばれていたようです。


石神井台5丁目23番地の庚申塚

 私は、若い頃から何度もこの道を車で通っていて「庚申塚交差点」の存在は知っていたのですが、庚申塔や塚の存在など気に留めたこともありませんでした。古墳巡りをするようになってからこの交差点名が気になっていて、お休みの日に自転車で見に行ってみたのですが、今では交差点の角に石造物が残されているのを見ると、ホッとするような暖かいような気分になります。
 所沢道は、大泉や石神井から江戸方面への産業の道であったとともに、江戸からの参拝、行楽の道でもあったといわれています。この庚申塚が道しるべでもあり、休息の場であったのかもしれませんね。。。


川越街道の庚申塚

 画像は、練馬区北町8丁目に所在する、川越街道の庚申塚です。旧川越街道が国道254号と交差する南東側に庚申塚の碑が建てられています。

 現在の練馬区内には、江戸時代に入って富士大山道、清戸道、所沢道、青梅街道、川越街道といった東西南北に通じる道が造られており、この川越街道は、川越藩主の江戸参勤と将軍家が川越で行った鷹狩の道筋であり、また川越から運ばれる農産物の量も多く、重要な役割を果していた街道であったといわれています。
 下練馬宿といわれたこの地域の旧川越街道沿いには、旅人たちの道中の無事と安全を祈った道標、観音像、庚申塔、地蔵尊などの多くの石造物が、今も昔のまま残されています。


川越街道の庚申塚

 この庚申塚を最初に見かけたのは、板橋区内の古墳巡りをしていた時ですが、川越街道の歩道のこの一角にのみ、まるで中央分離帯のような植え込みが作られていて、そこに庚申塔が建てられているのを偶然見つけて、これは果たして塚と呼んで良いものなのか?と考えてしまいました。笑。
 「庚申塚」と彫られているんだし、塚なんですよね、きっと。


江古田庚申塚

 画像は、練馬区栄町に所在する「江古田庚申塚」です。
 この庚申塚には説明板が設置されており、次のように書かれていました。

庚申塚の謂れ
 平安時代の初めに、人間の豊かで、
長生きをしたい、その気持ちが庚申信仰
に成った。
 人間の体の中の三戸の虫が、庚申の夜
寝ている間に天に昇り、天命に告げ口
をして寿命を奪われない様にする為に
庚申の日に、皆んなで夜通し楽しく過
ごして、三戸の虫に昇天の機会を与え
ない様にする。
 この庚申塚は一七六五年の明和二年
十月八日に建立されました。

 もともとあった古墳を流用して造られたとされる「江古田の富士塚」や、古墳だったのではないかといわれている「瓢箪塚」の「武蔵野稲荷神社」から直線距離にして2~300mほどに位置しているので、この庚申塚がかつて古墳を流用した可能性はないものかと妄想してしまいます。。。
 立地的にも、あ、やっぱり道路が交差する、Y字路の間の三角地なんだ?という場所ですが、かつてこの一帯が畑地か田園として利用されていた頃には、マウンドが存在したのかもしれませんが、このあたりの真相はわかりません。
 古墳とは無関係かとは思うのですが、「××塚」と塚の名称を見るとやはり気になってしまって、ついつい足を止めてしまいます。。。笑。


江古田庚申塚

 お堂に祀られている庚申塔は、明和二乙酉歳十月十八日(1765)の駒形の青面金剛像です。


「東本村庚申塚」

 最後は、平和台1丁目に所在する「東本村庚申塚」です。
 あ、やっぱりY字路の角にあるんだー?と思いましたが、後で調べてみると、画像の左側は田柄川という用水で、現在は暗渠となっているようですが、庚申塚は渡戸橋という橋のたもとにあったようです。


「東本村庚申塚」

 以前紹介した「小関庚申塚」も含めて、練馬区内の庚申塚には一箇所も教育委員会による説明板が設置されていなかったのですが、ちゃんと解説文を読むことができるといいですよね。。。

<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史 歴史編』
東京都練馬区『練馬区公式ホームページ』


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  1. 2018/11/12(月) 10:18:51|
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「練馬区内の一里塚」

「一里塚子育地蔵尊」

 さて、今回は、練馬区内に存在したといわれる一里塚の跡地を巡ってみようと思います。まずは、練馬区春日町2丁目の富士街道北側に所在する「一里塚子育地蔵尊」です。
 私は、古墳めぐりを始めるまでは、一里塚は東海道、中山道や日光街道といった五街道のみに造られたものかと思っていたのですが、実際には古街道にかなり多くの一里塚が存在したようなのですね。練馬区内では、石神井町にも一里塚と呼ばれる場所があり、この春日町の一里塚からこの石神井町の記念碑の場所まで約一里(4km)の距離であるようです。さらには、一里先、二里先の保谷にも一里塚の地名や跡地とされる場所が存在しており、当時、街道に沿って一里ごとに何らかの目印が置かれていたのかもしれません。。。
 富士街道に一里塚が造られたという記録は文献上には存在しないようなのですが、この場所には古くからこの地名があり、古老の言い伝えによると、道路を挟んだ南側に何らかの塚が存在したともいわれています。


「一里塚子育地蔵尊」

 お堂の横には、練馬区教育委員会による「ふじ大山道」についての説明板が設置されており、次のように書かれています。

 ふじ大山道
 ふじ大山道は、大山街道、富士街道、道者街
道ともよばれています。それは阿夫利山ともい
われた大山(神奈川県)へ、また大山から富士山
への道者たちが通ったからです。
 この街道は、北町一丁目で旧川越街道から分
かれて、石神井、田無を経て神奈川県伊勢崎市
に達していました。練馬の中央部をほぼ東から
西南に横断し、区内では約八キロメートルに及
んでいます。旧川越街道との分岐点には「従是
(これより)大山道」と刻んだ道しるべ(道標)
が建てられました。
 旧暦の六月は、俗に祭月とよばれているよう
に、江戸や関東の各地では、祭礼が盛んに行わ
れました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山
は開き」とあるように、六月二十八日は初山で、
それから七月十四日まで、連日、関東の村々か
ら集まった大山講や富士講の人々でにぎわいま
した。その道者たちが通ったのがこの街道です。
 平成二十一年三月
             練馬区教育委員会



「一里塚子育地蔵尊」

 かつてのこの一帯はくぬぎの並木が続き、一里塚と呼ばれた塚には大きながらぎっちょの木が植えてあったといわれています。付近には追い剥ぎや強盗が出没して旅人や農民が非常に苦しんだことから、安永年間の頃に災難除けのために地蔵尊が建てられました。お地蔵様は台座も高く、見上げるほどであったといわれています。
 その後、地蔵尊は倒れたままになっていたようですが、昭和31年に一里塚子育地蔵尊として再建され、現在に至っています。がらぎっちょの塚はその後、宅地化により削平されて消滅してしまったようです。


「一里塚」

 続いては、練馬区石神井町7丁目の、西武池袋線石神井公園駅近くの十字路の角の、「一里塚」が所在したとされる場所です。最近では、Googleマップにもこの地点が「一里塚」と記されているようです。


「一里塚」

 ふじ大山道は川越街道の下練馬宿(現北町)を分岐点としており、春日町の一里塚を経てここがちょうど二里目にあたります。古くは一里塚の槙を田柄用水が北の方向に流れており、この奥に塚が残っていたともいわれているようですが、現在は塚の痕跡は全く見られないようです。
 敷地内には、延享3年(1746)の錆がある庚申塔が建てられており、その背後に「一里塚改築記念碑」が建てられています。


「一里塚」

 画像が、庚申塔の背後に立つ「一里塚改築記念碑」です。大正14年4月3日建立とされる石碑です。
 ここから西に200mほどの「子育て地蔵」には、練馬区教育委員会による「大山街道」の説明板が建てられており、次のように書かれていました。

 大 山 街 道
 大山街道は道者街道、富士街道ともよばれて
います。それは、阿夫利山ともいわれた大山へ、
また大山から富士山への道者達が通ったからで
す。北町1丁目で川越街道から分かれて、石神
井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していま
した。練馬の中央部をほぼ東から西南に横断し
て区内では約八キロメートルに及んでいます。
そしてその分岐点には「従より大山道」と刻ん
だ道しるべが建てられたのです。
 旧暦の六月は、俗に祭月とよばれているよう
に、江戸や関東の各地では、祭礼がさかんに行
なわれました。阿夫利山も「水の無い月に雨降
る山は開き」とあるように、六月二十八日が初
山で、それから七月十四日まで、連日、関東の
村々から集った人々でにぎわいました。その白
衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
  昭和六十三年三月
                 練馬区教育委員会


「稲荷神社」

 練馬区内では、脇街道である青梅街道にも一里塚がつくられ、関町周辺に三番目の塚があったといわれています。この一里塚に関しては、詳しい記述のある文献が見つからず、正確な所在地はわからなくなっているようですが、当時の「出店」付近に第三の塚があったともいわれています。
 画像は、当時の「出店」近辺で青梅街道と千川通りが交差している、「関町一丁目交差点」で見かけた稲荷神社神社です。一里塚が存在したとすればこのあたりではないか、と推定した場所に鳥居と祠を見かけたことから、パチリとシャッターを切りました。実際に一里塚と何か関係があるのかどうかはわかりません。が、うん、この辺りに一里塚があった気がしてきた!(根拠なし)


「稲荷神社」

 敷地内には、庚申塔をはじめとする多くの石造物が残されています。

<参考文献>
練馬区教育委員会『練馬の伝説』
練馬区教育委員会『練馬の記念碑』
練馬区教育委員会 社会教育課『ねりまの文化財 第17号』
練馬区教育委員会 社会教育課『ねりまの文化財 第23号』
練馬区教育委員会 社会教育課『ねりまの文化財 第29号』


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  1. 2018/11/07(水) 23:03:55|
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「小関庚申塚」

「小関庚申塚」

 『東京都遺跡地図』によると、練馬区内には古墳は1基も登録されていません。昭和32年に発行された『練馬区史』の「区内古墳地名表」にはかろうじて7ヶ所が挙げられているようですが、これも発掘調査を経たものは一基もなく、「確実に古墳であるとは断言できない」という状況です。ただし、色々調べてみると、庚申塚や入定塚といった「塚」の名のつく場所は少なくなく、中にはなかなか興味深い伝説が残されている塚も存在するようです。

 というわけで、今回紹介するのは、練馬区石神井台7丁目に所在する「小関庚申塚」です。

 塚は南側を道路に、その他の三方を宅地により削られており、石垣により方形を呈しています。開発の進んだ住宅地の中にあってこの場所だけ周囲よりも一段高くなっています。
 元々の塚の形状は不明ですが、これが塚の名残である可能性は高そうです。実際に練馬区内を散策していると、道路が交差した辻の角に残されている庚申塚を、かなり頻繁に見かけましたが、実際に塚が残されたものは少なくなっているようですので、この「小関の庚申塚」は希少な存在かもしれませんね。。。


「小関庚申塚」

 ちょっと角度を変えて、南東から見た小関庚申塚です。
 昭和57年(1982)に発刊された『練馬区史』によると、練馬区内には136基もの庚申塔が残されており、これは東京23区内ではかなり多く、かつては農村信仰の中心をなしていたようです。庚申塔が道端に多く存在するのは、講中など信仰上の結衆を誇示する意味もあったようですが、道祖神と混交した結果、路上にあることによって、ついでに道中の安全をも願うようになったのではないかと言われています。ちなみに練馬区内には道祖神が見当らないそうです。この結果、辻などに建立されたものは道しるべをも兼ねたものが多く、特に区内庚申塔で道しるべ兼用は17基ほど存在するようですが、この中には道標の方が主目的で、庚申は付け加えられた感じのものも少なくないようです。


「小関庚申塚」

 塚上にはお堂が建てられていて、庚申塔は元禄四辛未八月十五日(1691)の方形笠付の青面金剛像が祀られています。


「小関庚申塚」


 青梅街道の関町南交差点から北に向かい、西武新宿線の武蔵関駅東側の踏切を百メートルほど過ぎると、西から東に流れる石神井川を渡ります。この橋が「庚申橋」で、道路は「関町庚申通り」です。さらにこの橋を渡った10メートルほどの「庚申橋北」交差点を右折したすぐ左側が、小関庚申塚の所在地です。周辺には、庚申塚にちなむ名称が多く残されているようです。

 この小関庚申塚が、かつて石神井川流域に築造された古墳を流用して造られているなんてことは……… ないですよね、たぶん。。。

<参考文献>
東京都練馬区『練馬区史 歴史編』
練馬区『練馬区公式ホームページ』


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  1. 2018/08/08(水) 09:13:14|
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「二ツ塚」

「二ツ塚」

 画像は、練馬区関町南4丁目の慈雲堂病院です。『東京都遺跡地図』によると、この病院の敷地内には、練馬区の遺跡番号34番の「二ツ塚」が登録されています。

 この塚について、昭和32年に発行された『練馬区史』の「区内古墳地名表」には円墳として記載されているようです。ただし、「地名表には7基をあげたが、発掘調査を経たものは一基もなく、そのすべてを確実に古墳であるとは断言できない状況である。」とも書かれており、同書が編纂された当時、学術的な調査が行われることもなく消滅してしまっていたこの塚の詳細はわからなくなっているようです。
 ちなみに『東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス』で確認すると、2基存在したはずの塚は慈雲堂病院内に一箇所のみ登録されており、「近世の塚」ではないかとしているようです。
 そこで、もう少しこの塚の詳細がわからないものかと、調べてみました。


「不動塚」

 「二ツ塚」は、「不動塚」と「物見塚」という2基の塚の総称であるようです。
 「不動塚」は、青梅街道の「慈雲堂入口」の信号(おそらく現在の「関町四丁目」の交差点と思われる?)の南西方面に存在したといわれているようです。これは慈雲堂病院の敷地内ではなく、現在の武蔵野グリーンタウンのあたりではないかとも思われます。塚には不動尊が祀られていたといわれているようですが、正確な所在地を特定するまでには至りませんでした。。


「物見塚」

 画像は、今も残されている関村の鎌倉道といわれた古道で、この道路沿いの西側のどこかに「物見塚」が所在したといわれています。この物見塚は関の番所か見張所だったのではないかとも考えられているようですが、やはり詳細はわかりません。江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』には、関村の小名として「二ツ塚」が記されていますので、この2基の塚はかなり知られた存在だったようです。
 ここから西側にかけての関町南4丁目周辺が練馬区内で一番標高が高いところであるようなので、立地的に塚を築造しやすい場所だったのかもしれませんね。。。


「鉄砲塚」

 「二ツ塚」のさらに東側にはもう1基、「鉄砲塚」と呼ばれる塚が存在したといわれています。この鉄砲塚も、『新編武蔵風土記稿』に関村の小名として記されており、延宝2年(1674)の関村検地帳にも掲載されています。
 現在の関町交番前交差点の周辺の地名は、かつて角屋と呼ばれており、鉄砲塚はこの角屋の南側、現在の石神井西中学校のあたりに存在したようです。鉄砲塚の「てっぽう」とは真っすぐという意味であるそうですが、鉄砲塚は南北に細長い塚で、昭和初期までは塚は残されていたようです。


「三ツ塚けやき緑地」

 不動塚、物見塚、鉄砲塚は、合わせて「関の三ツ塚」と呼ばれていたそうです。
 地元には「三ツ塚」の名称が区立公園に残されています。。。


「千川上水」

 この辺りは、武蔵野市と練馬区の境界に沿って千川上水が流れています。青梅街道を越えたところで暗渠となるまではちゃんと地上を流れているのですが、特にこの二ツ塚のあたりは住宅街の緑道になっていて、牧歌的で良い感じです。
 実は私は、2年ほどこの近くで暮らしたことがあるのですが、私が暮らしたアパートは残念ながらなくなってしまったようでした。あの頃はまだかなり畑が残されている印象だったのですが、少しずつ宅地化も進んでいるようです。それにしても、まさか塚を探しにもう一度来るとは思わなかったなあ。。。

<参考文献>
東京都教育委員会『東京都遺跡地図』
東京都練馬区『練馬区史』
練馬区教育委員会社会教育課『ねりまの文化財 第23号』
練馬区公式ホームページ


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  1. 2018/08/04(土) 23:14:26|
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「江古田の富士塚」(国指定文化財)

「江古田の富士塚」(国指定文化財)

 画像は、練馬区小竹1丁目にある「茅原浅間神社」を南から見たところです。この境内には「江古田富士」と呼ばれる富士塚が所在します。この「江古田富士」は『東京都遺跡地図』には、練馬区の遺跡番号117番の名称のない塚として登録されています。


「江古田の富士塚」(国指定文化財)

 かつてこの周辺が一面の茅の原であったために「茅原浅間神社」と呼ばれるようになったそうですが、江戸時代には「富士浅間社」とも呼ばれていたようです。西武池袋線の「江古田駅」の北口を降りて徒歩1分と近いところにあり、富士塚は拝殿の後ろ側に残されています。この「江古田富士」は、元々あった古墳を流用して造られた富士塚であるといわれており、高さ約8m、直径約30mの墳丘には富士山から持ち帰った溶岩が盛られています。 

 (財)日本常民文化研究所より発行されている『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』には、古墳が富士塚に改変されたようすについて次のように書かれています。

 (前略)塚の形態は、饅頭形をした頂部に富士形の土盛りをかさ上げしている。饅頭形の部分は、古墳時代の古墳と伝えられているように、古墳の墳丘の形態をみせており、とくにその特徴は北半において顕著である。(中略)塚の形態も南側が平坦的であることを考えると、富士塚を構築するときには、古墳の封土を切り剥いで頂上部に積み上げたことを知ることができる。なお、塚の頂上部から縄文時代早期の押形文土器が採集された。(後略)」(『富士講と富士塚 ―東京・神奈川―』144〜146ページ)

「江古田の富士塚」(国指定文化財)

 画像が、「江古田富士」を南から見たところです。敷地内には東京都教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれていました。

練馬区登録有形民俗文化財
国指定重要有形民俗文化財
 江古田の富士塚


 江古田の富士塚は、富士講の一派小竹丸祓講によって天保10年(1839)に築造されたものと考えられますが、一説には文化年間(1804~1818年)築造ともいわれています。高さ約8メートル、直径約30メートル、関東大震災の時に損壊しましが、その後復旧され、塚全体が富士の溶岩で覆われています。
 頂上の唐破風屋根のついた石祠は、天保10年に造立されたもので、他に経ヶ嶽・太郎坊・小御嶽神社の石碑や大天狗・小天狗・神猿などの石像もあり、元治2年(1865)の講碑、大正12年震災時の御神体修築の碑などが建っています。社殿の前には文化4年(1807)の石灯籠や文化9年(1812)の手水鉢なども残っています。
 都区内の富士塚の中では、大規模な部類に属し、庶民信仰の様相を示すものとして、昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定されました。

  平成元年3月     練馬区教育委員会


 年3回の一般公開(正月三が日、山開きの7月1日、9月の第二土曜・日曜)の日に登拝することができるそうです。

<参考文献>
練馬区立石神井公園ふるさと文化館『ふるさと練馬探訪』
名著出版『練馬区の歴史』
現地説明版

  1. 2014/11/15(土) 22:33:48|
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